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【大河ジョン万】アメリカへ漂流したジョン万次郎(中濱万次郎/山﨑賢人)の生涯をわかりやすく予習!

幕末維新
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令和10年(2028年)NHK大河ドラマ第67作は「ジョン万(じょんまん)」に決定。山﨑賢人がジョン万次郎こと中濱万次郎(なかはま まんじろう)を演じるそうです。

果たして彼は何者だったのか、その生涯をたどり、大河ドラマの予習にお役立てください!

※ジョン万次郎という名前は井伏鱒二の小説『ジョン万次郎漂流記(昭和13・1938年)』が初出で、それ以前にそう呼ばれたことはありませんが、今回は便宜上この名で呼ぶことがあります。

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ジョン万次郎の生い立ち

漁師となった万次郎(イメージ)

万次郎は文政10年(1827年)1月1日に土佐国幡多郡中ノ浜村(高知県土佐清水市)で誕生しました。

父親は悦介(えつすけ)、母親は汐(しお)といい、半農半漁の貧しい家庭に育ったそうです。

寺子屋に通う経済的余裕はなかったため、読み書き算盤はほとんど出来ない状態でした。

天保6年(1835年)に9歳で父親を亡くし、病弱だった母親と長兄に代わって家計を助けるため、10歳ごろから働きに出ます。

はじめは中浜浦老役を務める今津太平(いまづ たへい)に奉公したものの、無学ゆえか軽んじられ、重労働を課せられたそうです。

このままではいびり殺されてしまう……あまりの酷使に耐えかねて脱走した万次郎は、母親の伝手で宇佐(高知県土佐市宇佐町)へ行き、筆之丞(ふでのじょう)の下で漁師となりました。

ここでは仕事に馴染んで上手くやれたそうですが、漁師は相当な重労働です。それよりも過酷な奉公というのは、一体どんなものだったのでしょうか。

恐らくは人間関係によるいじめやパワハラだったのかも知れませんね。

ジョン万次郎の漂流生活

長い航海の始まり(イメージ)

月日は流れて天保12年(1841年)1月5日、14歳となっていた万次郎は炊係(かしき。炊事・雑用担当)として漁船に乗り組みました。

漁船に乗っていたのは以下の5名です。

  • 船頭:筆之丞(38歳)
  • 漁撈:重助(筆之丞の弟、25歳)、漁の責任者
  • 櫓係:五右衛門(同弟、16歳)、魚群の見張り
  • 櫓係:寅右衛門(とらゑもん、26歳)
  • 炊係:万次郎(14歳)

立場的には寅右衛門が直属の上司ですが、年齢的には五右衛門(ごゑもん)の方が親しみやすかったでしょう。

ともあれ早朝に出港した漁船は、鯵や鯖を獲るために足摺岬の沖合を目指しました。

しかし漁船が足摺岬の沖合南東15キロほどのところで、にわかに強風が襲います。

あまりのことで操舵不可能となってしまった漁船は難破・漂流を余儀なくされました。

水や食糧の備蓄が充分あったのか、あるいは獲った魚で食いつないだのか……5日半とも10日間とも言われる漂流生活の末、漁船は伊豆諸島の一つである鳥島(とりしま。無人島)に漂着します。

やれやれ海の藻屑は避けられた……命からがら上陸した5人ですが、無人島ですからすぐに救助された訳ではありません。

ここから143日間にわたるサバイバル生活が始まったのです。

仲間たちと別れたジョン万次郎

ウィリアム・ホイットフィールド(画像:Wikipedia)

5人はわずかに溜まった雨水で喉を湿らせ、こびり着いた海藻をこそげむさぼり、海鳥を獲って食らいしながら命をつなぎました。

かくして季節は春から夏へと移ろい、アメリカの捕鯨船ジョン・ハラウンド号に発見されたのは、実に天保12年(1841年)5月9日のことです。

船長のウィリアム・ホイットフィールドらも腹を空かせていたようで、食糧用に海亀を獲ろうとしていたようでした。

ともあれ無事に救助された万次郎一行ですが、このまま日本へ帰る訳にはいきません。

本当は帰りたくて仕方ないでしょうが、当時の日本はいわゆる鎖国政策をとっていたため、漂流民の帰国を受け入れなかったのです。

そもそもジョン・ハラウンド号にも予定があるため、わざわざ日本へ向かってくれるはずもありません。

なので万次郎一行は船に乗せられるまま、アメリカを目指すことになりました。

かくして船に揺られること約半年、一行は天保12年(1841年)11月20日にハワイのホノルルへ到着します。

筆之丞ら4名はハワイ王国顧問ジェリット・ジュットの計らいで下船。万次郎だけは引き続き、捕鯨船の乗組員としてアメリカ本土を目指しました。

ちなみに筆之丞たちはその後……。

  • 筆之丞は伝蔵と改名し、後に日本へ帰国。
  • 重助は弘化3年(1846年)にホノルルで病死。
  • 五右衛門は筆之丞改め伝蔵と共に日本へ帰国。
  • 寅右衛門はそのままホノルルに定住。

それぞれの末路も、大河「ジョン万」で語られるのでしょうか。

成長著しいジョン万次郎

学校教育を受ける万次郎(イメージ)

万次郎が仲間たちと別れてアメリカ本土を目指したのは、本人の希望に加え、頭のよさをホイットフィールド船長に気に入られたためと言います。

貧しくて寺子屋にも行けなかった万次郎ですが、きっと地頭がよかったのでしょう。

好奇心旺盛で仕事にも積極的だった万次郎は、他の乗組員からも気に入られたようで、ジョン・マン (John Mung)と呼ばれました。

このジョンとは、捕鯨船ジョン・ハウランド号にちなんだものだそうです。

万次郎はこの航海を通じて世界地図を見せてもらい、日本の小ささと世界の大きさに目を開かれました。

かくしてグアム・ギルバート諸島・モーレア島・ホーン岬などを経由したジョン・ハウランド号は天保14年(1843年)5月7日に捕鯨航海を終え、マサチューセッツ州ニューベッドフォードへ帰港します。

そしてホイットフィールド船長の故郷であるフェアヘーブンへ移った万次郎は、養子のような扱いを受けました。

オックスフォード・スクールへ通わせてもらった万次郎は、小学生にまじりながらジェームズ・アレンの指導で英語を学びます。

更にはスコンチカットネック・スクールやバートレット・アカデミーと進学しました。

これは単に船長の好意ではなく、万次郎の好奇心と才能を見込んでのことでしょう。

寝る間を惜しんで勉学に打ち込んだ万次郎は、英語だけでなく数学・測量・航海術・造船技術などを修め、ついに首席で卒業する成果を収めました。

アメリカで当時の先進的な学問や、民主主義や男女平等など斬新な思想を吸収した万次郎でしたが、黄色人種ゆえの差別も体験したと言います。

再び航海へ出るジョン万次郎

再び航海へ(イメージ)

様々な刺激や差別の中でアメリカ生活を送っていた万次郎は、捕鯨船フランクリン号に乗組み、弘化3年(1846年)5月16日に出港しました。

フランクリン号の船長は、かつてジョン・ハウランド号で一緒だったアイラ・デービス。万次郎はスチュワード(補佐役)としてデービスの右腕代わりを務めます。

この航海は数年に及び、大西洋とインド洋、太平洋を股にかけて各地を回りました。

ボストン・アゾレス諸島(ポルトガル領)・カーボベルデ(カーボベルデ共和国)・喜望峰(ケープタウン)・アムステルダム島(フランス領)・ティモール島(インドネシア)・スンダ海峡(インドネシア)・ニューアイルランド島(パプアニューギニア)・ソロモン諸島(同国)・グアム・マニラ(フィリピン)・父島・ホノルル・モーリシャス(モーリシャス共和国)……。

ホノルルでは以前に別れた伝蔵(筆之丞)たちと再会を果たし、また途上で琉球国(沖縄県)の小島にも上陸しています。

しかしまだ日本への帰国は叶わず、結局は嘉永2年(1849年)にニューベッドフォードへ帰港しました。

いよいよ日本へ

琉球国に上陸(イメージ)

このままでは、いつまで経っても日本へ帰国できないかも知れない……そう懸念したのか、万次郎は一念発起して帰国資金の調達を考えます。

当時ゴールドラッシュで沸いていたサンフランシスコへ向かい、金鉱で坑夫として働きました。

数ヶ月間にわたって働いた万次郎は充分な帰国資金を確保。ホノルルへ赴いて伝蔵たちと合流します。

そして嘉永3年(1850年)12月17日に宣教師サミュエル・C・デイモンの伝手で上海行きの商船サラ・ボイド号に乗り込みました。

この時に伝蔵と五右衛門が同船。重助はすでに病死、寅右衛門はホノルルで永住するため、ここで別れます。

万次郎たちは日本に上陸するための小舟アドベンチャー号を購入、これもサラ・ボイド号に乗せて出港しました。

年が明けて嘉永4年(1851年)、万次郎たちはアドベンチャー号で琉球国に上陸します。

翁長の地で牧志朝忠(まきし ちょうちゅう)から取り調べを受け、琉球国宗主である薩摩国(鹿児島県西部)へ護送されました。

万次郎たちは重ねて取り調べを受けたものの、欧米文化に興味の深い藩主の島津斉彬(しまづ なりあきら)以下薩摩藩から歓迎されます。

斉彬から質問攻めにあった万次郎はアメリカ仕込みの造船術や航海術を伝え、後に薩摩藩校の英語講師として招かれました。

この時に万次郎が伝えた技術を元に、薩摩藩は越通船(おっとせん)と呼ばれる和洋折衷船舶を建造しています。

漂流11年目で帰郷

ようやく帰郷(イメージ)

薩摩藩での取り調べが終わると、万次郎たちは長崎へ護送され、長崎奉行所で取り調べを受けました。

長崎奉行所では切支丹(キリスト教徒)でないか確かめるために踏み絵を踏まされます。

ただし永らく踏みつけられた結果、何の絵か、何のために踏むのすらもわからなくなっていました。

なので万次郎たちは意味もわからず踏みつけ、無事疑いは晴れたそうです。

外国から持ち帰った所持品はすべて没収された万次郎たちは土佐国へ護送され、高知城下で吉田東洋(よしだ とうよう)ら土佐藩の取り調べを受けました。

これまで琉球国→薩摩藩→長崎奉行所→土佐藩と、何をどれだけ訊かれたのでしょうか。

※管轄ごとに取り調べ内容の引き継ぎや共有は行われなかったものと思われます。

取り調べを担当した河田小龍(かわた こりゅう)は万次郎の供述をまとめ、後に『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』を著しました。

※巽とは南東を指し、南東の大海≒アメリカ方面を漂流した記録という意味です。

やがて嘉永5年(1852年)になると万次郎は帰郷を許され、漂流から10年以上の歳月を経て、母親と再会を果たしたのです。

士分そして旗本へ

江川太郎左衛門英龍(画像:Wikipedia)

かくして漂流生活を終えた万次郎は土佐藩の士分に取り立てられました。

アメリカ仕込みの英語や学識を見込まれて土佐藩校「教授館」の教授となった万次郎は、後藤象二郎(ごとう しょうじろう)や岩崎弥太郎(いわさき やたろう)らを教えています。

嘉永6年(1853年)にペリーが来航して幕府に開国を迫ると、万次郎は幕府の招きで江戸に赴任し、そのまま幕府直参の旗本に取り立てられました。

この時に生まれ故郷を苗字として中濱万次郎と名乗り、江川英龍(えがわ ひでたつ。太郎左衛門)の配下となります。

幕府の御普請役となった万次郎は、かつて長崎で没収された所持品を返還され、また勘定奉行の川路聖謨(かわじ としあきら)からアメリカ事情の聴取を受けました。

明けて安政元年(1854年)になると、万次郎は鉄(てつ/かね)と結婚します。彼女は幕府で剣術指南を務める団野源之進(だんの げんのしん)の娘です。

安政3年(1856年)には軍艦教授所で教鞭をとって造船術や測量・航海術を指導しました。

その一方で英会話書『英米対話捷径(えいべいたいわしょうけい)』を執筆したり、航海術書『ボーディッチ航海術書』を翻訳したりなど、多忙な日々を送ります。

他にも講演や通訳、船舶の品定めや買付けなど精力的に活動し、この時期に大鳥圭介(おおとり けいすけ)や箕作麟祥(みつくり りんしょう/あきよし)らも薫陶を受けたのでした。

初めて外国人を逮捕した日本人に

咸臨丸(画像:Wikipedia)

やがて万次郎は、幕府が建造した洋式帆船「君沢形(きみさわ/くんたくがた)」について、航海演習を兼ねた捕鯨船としての運用を提案します。

安政6年(1859年)3月に君沢形一番が品川港から出航、小笠原諸島へと向かいました。

しかし暴風雨に見舞われた末に船体が損傷してしまったため、航海を断念しています。さぞ無念だったでしょうが、難破・漂流するような事態は避けられました。

船出の機会は間もなく巡り、万延元年(1860年)には日米修好通商条約に伴う遣米使節団の一員として咸臨丸に乗船。船酔いがひどかった船長の勝海舟(かつ かいしゅう)に代わって、同僚のジョン・ブルックと共に指揮をとったと言います。

ただし洋行かぶれと見られていた万次郎はスパイ疑惑がもたれることを恐れ、立ち居振る舞いには細心の注意を払いました。

サンフランシスコに入港すると使節の一員として活躍し、帰国時には同行していた福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)と共にウェブスターの英語辞書を購入しています。また帰途のホノルルではサミュエル・C・デイモンと10年ぶりに再会しました。

帰国後の文久元年(1861年)には外国奉行の水野忠徳(みずの ただのり)に同行、再び咸臨丸で小笠原諸島の開拓調査に出航しています。

翌文久2年(1862年)にも小笠原諸島近海で捕鯨を実施していますが、母船の壹番丸(いちばんまる)に乗り組んでいたアメリカ人水夫2名が父島での停泊中に強盗未遂事件を起こしました(ホーツン事件)。万次郎はただちに2名を逮捕し、身柄を横浜のアメリカ領事館に引き渡します。万次郎は初めて外国人犯罪を取り締まった日本人となったのでした。

その後再出航を図ったものの、政情不安のため幕府からの許可は下りず、万次郎はしばらく内地で翻訳や教職の仕事に従事して過ごしたと言います。

薩摩・土佐そして幕末の江戸へ

中浜万次郎の像。

万次郎は元治元年(1864年)になると薩摩へ赴任し、藩校「開成所」で教鞭をとるようになりました

また慶応元年(1865年)に薩摩藩が長崎で船舶5隻を購入する際は、売買交渉を担当しています。

慶応2年(1866年)には土佐藩で藩校「開成館」が設立されると、教授として招かれて英語・航海術・測量術などを指導しました。他にもかつての教え子であった後藤象二郎と長崎や上海へ赴き、帆船「夕顔丸」などを購入したそうです。

年が明けて慶応3年(1867年)になると万次郎はまたしても薩摩藩へ招かれて英語や航海術を指導します。しかし武力討幕の機運が高まったことから、同年12月には江戸へ呼び戻されました。

そしていよいよ戊辰戦争が幕を開けた慶応4年(1868年。明治元年)、万次郎の動静ははっきりとはわかっていません。恐らく下手に動き回ることはせず、事態を静観していたのではないでしょうか。

明治維新以後

中濱万次郎(画像:Wikipedia)

戊辰戦争が終結した明治2年(1869年)、万次郎は明治政府に招かれ、開成学校(現代の東京大学)で教鞭をとることになりました。

翌明治3年(1870年)には大山巌(おおやま いわお)らと共にヨーロッパへ派遣され、普仏戦争(プロイセンとフランスの戦争)を視察します。この道中でフェアヘーブンを訪れた万次郎は、恩人であったホイットフィールドと再会し、身に着けていた刀を贈りました。

やがて旅先で発病した万次郎は急遽帰国、軽度の脳溢血に倒れた後は静養に努めます。周囲からは政治家への転身を勧められましたが、あくまで教育者として生涯をまっとうする道を選んだそうです。

万次郎が世を去ったのは明治31年(1898年)11月12日、当時71歳でした。現在は雑司ヶ谷霊園に眠っています。

死後30年が経った昭和3年(1928年)に正五位を追贈されました。

終わりに

万次郎の旅路(画像:Wikipedia)

今回は幕末にアメリカへ漂流し、後に世界各地を駆け巡ったジョン万次郎こと中濱万次郎の生涯をたどってきました。

果たしてNHK大河ドラマ「ジョン万」では、山﨑賢人がどんな万次郎を演じてくれるのでしょうか。

2年連続で幕末モノになりますが、主人公≒視聴者の視点によって、まったく異なる景色が見られるはずです。

今から楽しみにしておきましょう!

※参考文献:

  • 新人物往来社 編『別冊歴史読本64 世界を見た幕末維新の英雄たち』新人物往来社、2007年4月
  • 谷是『高知県謎解き散歩』新人物往来社、2012年5月
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