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さすが天下人?愛娘のためなら神様にも喧嘩を売ってしまう豊臣秀吉の親バカぶり

戦国時代
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自分の子供が可愛くてしょうがない……そんな親バカは今も昔もいたものですが、天下人ともなるとそのスケールは並外れていたようです。

今回は豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)とその養女・豪姫(ごうひめ)のエピソードを紹介。いったい、どんな親バカぶりを発揮してくれるのでしょうか。

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「日本中の狐を根絶やしに」…伏見稲荷に脅迫状を送りつける

豪姫は天正2年(1574年)に加賀百万石の祖として有名な前田利家(まえだ としいえ)の四女として生まれ、当時子供のいなかった秀吉夫婦のもとへ養女に出されました。

秀吉は豪姫を大層可愛がったようで、「お前はとびきりの婿に嫁がせてやろう」と大張り切り。将来有望と見込んだ宇喜多秀家(うきた ひでいえ)と嫁がせます。

夫婦仲も円満だったようで、嫡男の宇喜多秀高(ひでたか)らを産んで子宝にも恵まれましたが、生まれつき病弱だったこともあってか、たびたび心身を病み苦しんだそうです。

浮田(宇喜多)秀家の室、妖恠(妖怪)に侵され悩乱(のうらん)す……

※『武徳編年集成』より

診察の結果、これは狐の霊がとり憑いた「狐憑き(きつねつき)」とされ、産後鬱のようなものだったのかも知れません。

狐に憑かれてしまった豪姫(イメージ)

さっそく加持祈祷がなされたものの効果がなく、しびれを切らした秀吉は、京都の伏見稲荷に一通の書簡(ほぼ脅迫状)を送りつけました。

「こたび、我が愛娘に狐が憑いてしまったが、これは狐をお使いとする稲荷大明神の管理不行き届きである。ただちにこの不届きな狐を取り締まらねば、全国に布令して日本中の狐という狐を根絶やしにしてくれようぞ!(意訳)」

愛する豪姫を喪うくらいであれば、神様にだって喧嘩を売ってやる……そんな秀吉の必死な親バカぶりが偲ばれ、実際に文禄4年(1595年)10月20日、石田三成(いしだ みつなり)と増田長盛(ました ながもり)に狐狩りを命じています。

「やれやれ……」命に従う増田長盛(イメージ)

「やれやれ。狐どもも、とんだ迷惑じゃろうな……」

実際にどれほどの狐が狩られたのかはともかくとして、秀吉の思いが通じたのかどうか、やがて豪姫は回復。ちなみに実父の利家も、三池伝太の名刀をもって狐を落としたと言いますが、これは邪気祓いのようなものでしょうか。

終わりに

こうした方々の努力があって豪姫に狐が憑くことはなくなったそうですが、「畏れ多くも、神様に喧嘩を売った」祟りゆえか、今度は秀吉や利家が病を患いがちになってしまいました。

「ふん、人間ふぜいが天下を奪ったくらいで調子に乗りおって……」

それでも、愛する娘さえ健康で幸せならば……と悔いもなかったことでしょう。

やがて秀吉の死後、関ヶ原の合戦(慶長5・1600年)に敗れた夫・秀家と二人の子供たちが八丈島へ島流しにされると同行を許されず、養母・おね(高台院)の元に引き取られましたが、後に化粧領1,500石を与えられて実家の加賀金沢へ移住。

キリスト教の洗礼を受けてマリアとなった豪姫は、寛永11年(1634年)5月23日に61歳で世を去り、墓は前田家墓所(現:石川県金沢市)ほか、菩提寺である大蓮寺(同)、高野山奥之院の豊臣家墓所(現:和歌山県伊都郡高野町)にあります。

晩年の豪姫(イメージ)

(キリシタンでありながら仏式で埋葬されたのは、その後少なくとも表向きは改宗したのでしょうか)
その晩年は寂しいものでしたが、かつて両親や両父母、そして夫や息子たちから愛された日々の思い出が、豪姫にとって大きな支えとなっていたことでしょう。

※参考文献:

  • 岩沢愿彦『人物叢書 前田利家』吉川弘文館、1988年
  • 桑田忠親『戦国武将の生活』角川選書、1969年

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