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剣術は一流だったが…幕末の天才問題児・仏生寺弥助のろくでなしエピソード

幕末維新
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昔から「天才とナントカは紙一重」などと言う通り、極端に優れた才能を持っていると、それと引き換えなのか性格などに難を抱える人物も少なくありません。

その極振り(きょくふり。ステータス値などの極端な振り分け。全振りとも)が強烈な個性を生み出す一方で、周りの人々は大迷惑をこうむることもしばしば。

今回は幕末に活躍した天才的な問題児・仏生寺弥助(ぶっしょうじ やすけ)のエピソードを紹介。その突き抜けたロクデナシっぷりをご覧ください。

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弥助、江戸の練兵館へ!

仏生寺弥助は文政13年(1830年)、百姓の倅として越中国射水郡仏生寺村(現:富山県氷見市)に生まれます。

本名は吉村豊次郎(よしむら とよじろう)、農家の次男坊として父や兄を支えるべきところですが、小さな頃から暴れん坊で手に負えず、口減らしもかねてどこかへ放り出すことになりました。

「同郷の斎藤弥九郎(さいとう やくろう)先生が江戸で剣術道場(※)を開いているから、そこでちょっと厳しく躾けてもらったらいいんじゃなかろうか」

斎藤弥九郎。Wikipediaより

(※)後に幕末江戸三大道場の一つとして知られる練兵館(れんぺいかん。神道無念流)。「技の千葉(北辰一刀流の玄武館)」「位の桃井(鏡新明智流の士学館)」に並び「力の斎藤」と称されました。

「アイツも江戸に行けるとなったら、喜ぶだろう」

父や兄の読み通り、豊次郎は二つ返事でこれを承諾。紹介状をもってはるばる江戸までやってきた豊次郎は、心機一転のつもりか仏生寺弥助と名乗ります。

「俺は先生と同じ『仏生寺』村の者だ。同郷のよしみで斎藤『弥』九郎先生の『助』けになるから、これからは仏生寺の弥助と呼んで下せぇ」

と言ったかどうだか、まったく恩着せがましい話ですが、とりあえず弥九郎は弥助を受け入れ、風呂焚きとして召し使うことにしました。

斎藤塾の閻魔鬼神、たった2年で免許皆伝!

「……あーあ、毎日々々薪(まき)割り水くみ竈(かまど)番。せっかくお江戸にいるってぇのに、これじゃあ村にいるのと変わらねぇや……」

などとボヤいていた弘化2年(1845年)、16歳になった弥助に声をかける者がありました。

「もし剣術に興味があるなら、一つ稽古してみるか?」

声の主は練兵館の食客で、隠居先生と呼ばれていた岡田利貞(おかだ としさだ)。せっせと働く弥助の身こなしに、何か光るものを見出したようです。

「へぇ、いいのかい?それじゃあ一丁、やってみるか!」

子供の頃から、棒切れを振り回してのチャンバラごっこなら負けなしだった弥助。竹刀はもちろん、素振り用のぶっとい木刀だって軽々と振り回し、いざ立ち会ってみたら、先輩たちをバッタバタ。

負けなしの弥助(イメージ)

「……これは驚いた」

神道無念流に入門してから2年で免許皆伝という天稟(てんぴん。生来の才能)を見せ、先輩たちは誰も敵わなかったそうです。

他流試合においても負け知らずの、剣客たちは「斎藤塾の閻魔鬼神」と恐れるようになりました。

弥助が得意としたのは左上段からの面打ち。相手に「打つ」と予告して、警戒(ガード)させたにも関わらず、その隙を衝いて必ず当てる鋭い太刀筋に、誰もが舌を巻いたものでした。

また組討(徒手格闘)にも優れており、得意の上段前蹴りもまた、予告したうえで必ず命中させたと言います。

練兵館の精鋭「勇士組」に抜擢、いざ京都へ!

そんな弥助でしたが、斎藤弥九郎の子息である斎藤新太郎(しんたろう)や斎藤歓之助(かんのすけ)にはわざと負けて取り入るなど、性格的にはあまり気持ちのよい人物ではなかったようです。

また、子供の頃から勉強が大嫌いで読み書きを覚えないまま大人になり、自分の名前を書くことさえおぼつかなかったと言います。

加えて大の酒好きで稽古の時以外は呑んだくれて過ごし、しばしばトラブルを起こしていたものの、それでも剣術の腕前は一品だったため、練兵館の門番役として道場破りを撃退する役目を果たしていたのでした。

「あ?『お客さん』かい……わかった、行くよ……ヒック」

錬兵館の門番を務めた弥助(イメージ)

ある時は大石神影流の道場破り十名を立て続けに撃ち払ったり、長州の剣客・宇野金太郎(うの きんたろう)を撃退したりなど評判を高め、かの高杉晋作(たかすぎ しんさく)や桂小五郎(かつら こごろう。後の木戸孝允)も太刀打ちできなかったそうです。

かくして自堕落に暮らしていた弥助に京都行きの話が舞い込んだのは、幕末の風雲吹き荒れる文久3年(1863年)。

「この度、長州への加勢として勇士組(ゆうしぐみ)を選抜する」

この頃、京都では長州藩と薩摩藩&会津藩が攘夷運動の主導権争いを繰り広げており、長州藩主・毛利家より練兵館に援軍要請があったため、弥九郎は門弟の中から特に優れた者十数名を選抜。その中に、当然のごとく弥助の姿もありました。

ロクデナシの限りを尽くした、ロクデナシらしい最期

「よぅし、尊皇攘夷・尽忠報国の志のため、この腕を役立てる時がついに来たか!」

喜び勇んだ弥助でしたが、どこへ行ってもロクデナシはロクデナシ……軍資金を調達するため、京都に着いた弥助は呉服屋で300両を押し借り(強引に借りること)したかと思えば、今度はそれを遊興費に使い果たしてしまいます。

「お前は何をしているんだ!」

「いやぁ、ホラ。あれですよ。尊皇攘夷に必要な鋭気を養うとか、そういうアレで……ヒック」

カネをたかって酒を呑み、酔っ払ってはトラブルを惹き起こす……とんだ加勢もあったもので、いくら強いとは言っても、こんなのならいない方がよっぽどマシです。

それだけならまだ江戸に追い返すだけで済んだのでしょうが、まずいことに敵対する壬生浪士組(みぶ ろうしぐみ。後の新撰組)局長・芹沢鴨(せりざわ かも)らと意気投合してしまいます。無法者同士、通じ合うモノがあったのかも知れません。

(水戸派の尊皇攘夷思想と共鳴した可能性もないではないものの、弥助がそんな上等なことを考えそうには思えず、恐らく単純に「そっちの方が面白そう」くらいの動機だったのでしょう)

「万に一つ、連中に与するようなことがあれば……」

「これは流石に、斬るよりあるまい!」

文久3年(1863年)8月8日、勇士組と長州藩士らは弥助を囲んで大いに呑み、酔い潰れた弥助を五条河原で斬殺したのでした。

享年34歳、いかにもロクデナシらしい最期を遂げた弥助は仙徳院刃豊居士(せんとくいん じんぽうこじ)との戒名を与えられ、心光寺(現:京都市左京区)に眠っています。

戒名の豊は本名の豊次郎からとったのでしょうが、刃とはいくら剣術の達人とは言え、何だか殺伐感が強いですね。

♪ちっちゃな頃から悪ガキで 15で不良と呼ばれたよ
ナイフみたいにとがっては 触るものみな傷つけた……♪
※チェッカーズ「ギザギザハートの子守唄」

まるでむき出しの白刃みたいな人生を送った弥助でしたが、向こうで少しは心安らかに過ごして欲しいものです。

※参考文献:
新人物往来社 編『剣の達人111人データファイル』新人物往来社、2002年10月
結城凛 編『歴史ミステリー 日本の武将・剣豪ツワモノ100選』ダイアプレス、2020年11月

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