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【どうする家康 外伝】徳川家臣の三河浅井一族が代々務めた「富士見番」ってどんな役職?調べてみました!

戦国時代
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NHK大河ドラマ「どうする家康」皆さんも観ていますか?筆者も毎週の展開から目が離せません。

さて、徳川家康と言えば日本史上でも屈指の英雄、誰もが認める天下人です。

しかし、その偉業もただ一人で成し遂げられたものではなく、数知れぬ家臣たちに支えられたことは言うまでもありません。

今回はそんな徳川家臣団の一人・三河浅井一族を紹介。果たして彼らは、どんな生涯を送ったのでしょうか。

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三河浅井一族の出自について

戦国時代の浅井と聞くと、北近江の浅井長政らを連想する方も多いと思います。

三河浅井一族についても元々は近江国にいたそうで、室町時代中期の嘉吉2年(1442年)に公家の三条公綱が近江国浅井郡丁野村へ流された折、現地の女性ともうけた落胤の子孫が三河へやってきたのでした。

浅井一族の遠祖・中臣鎌足(画像:Wikipedia)

【三河浅井一族の略系図】

……中臣鎌足―藤原不比等―藤原房前―藤原真楯―藤原内麻呂―藤原冬嗣―藤原良房=藤原基経―藤原忠平―藤原師輔―藤原公季=藤原実成―藤原公成―藤原実季―藤原公実―三条実行―三条公教―三条実房―三条公氏―三条実蔭―三条公貫―三条実躬―三条公秀―三条実継―三条公豊―三条実豊―三条公雅―三条実雅―三条公綱(嘉吉2・1442年に近江国浅井郡丁野村へ左遷)―浅井重政(亀若丸。落胤)―浅井忠政(新左衛門)―浅井賢政(新次郎)―浅井利政(肥前守。近江から三河へ移住)―浅井元近(九郎左衛門)―浅井元貞―浅井元信=浅井元清……

※『寛政重脩諸家譜』巻第七百三十九 藤原氏(公季流)浅井ほか

公綱の烙印・亀若丸が元服して浅井の地名を苗字とし、その曾孫である浅井利政が三河国額田郡大樹寺村へ移住したということです。

『寛政重脩諸家譜』では利政の子・浅井元近から紹介が始まります。

三河浅井一族2代目・浅井元近

●元近

初政胤 七九郎 九郎左衛門

三河国額田郡大樹寺村に住し広忠卿につかへ、其のち東照宮台徳院に歴仕し武蔵国豊島郡のうちにをいて五十石の地をたまふ。慶長九年八月十五日死す。年八十六。法名圓寿。武蔵国多摩郡の成就院に葬る。

※『寛政重脩諸家譜』巻第七百三十九 藤原氏(公季流)浅井

永正16年(1519年)生~慶長9年(1604年)8月15日没

通称は七九郎、または九郎左衛門。元服してはじめ浅井政胤と名乗りますが、故あって浅井元近と改名。この元は、松平家の主君であった今川義元から拝領したのでしょうか。

松平広忠・徳川家康・徳川秀忠の三代に仕え、武蔵国豊島郡(東京都東部)に五十石の知行を賜わりました。恐らく家康が関東に国替えとなった天正18年(1590年)以降と考えられます。

かなり晩年になってから評価された印象ですが、従来の身分がよほど低かった(武士ではなかった?)のでしょうか。齢70を越えて初めて所領を与えられ、永年の功労が報われたのでした。

そして慶長9年(1604年)に86歳で世を去り、武蔵国多摩郡の成就院(東京都あきる野市か)に葬られます。

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三河浅井一族3代目・浅井元貞

家康に仕えた浅井元貞たち(イメージ)

●元貞

九郎左衛門 母は某氏。

東照宮につかへたてまつり、天正十八年関東に入せたまふのとき供奉し、虎間の番をつとめ、采地をあらためて廩米五十俵月俸四口をたまふ。其後富士見番となり、寛永三年正月八日死す。年七十。法名定立。葬地元近におなじ。

※『寛政重脩諸家譜』巻第七百三十九 藤原氏(公季流)浅井

弘治3年(1557年)生~寛永3年(1626年)1月8日没

通称は九郎左衛門。代々襲名しているようですね。家康に仕え、関東国替えに際して江戸城虎間(とらのま。書院番の詰所)の番を務めました。

父の死後に所領五十石を受け継いだものの、やがてこれを召し上げられ、庫米(くらまい)五十俵を与えられます。庫米とは実際の所領ではなく、そこから収穫される相当の米を与えられるシステムです。

やがて富士見番を命じられ、この役職が子孫たちに受け継がれました。70歳で世を去り、父と同じ成就院に葬られます。

三河浅井一族4代目・浅井元信

●元信

半平 九郎左衛門 元明が由緒を記せし書に元次に作る。母は某氏。

寛永二年より大猷院に仕へたてまつり、後父が遺跡を継、富士見番をつとむ。延宝二年八月十日死す。年六十七。法名常圓。小石川の善仁寺に葬る。

※『寛政重脩諸家譜』巻第七百三十九 藤原氏(公季流)浅井

慶長13年(1608年)生~延宝2年(1674年)8月10日没

通称は半平、または九郎左衛門。元次という別名も伝えられています。

18歳となった寛永2年(1625年)より徳川家光に仕え、父の跡目を継いで富士見番となりました。67歳で世を去り、小石川の善仁寺(東京都文京区)に葬られたということです。

三河浅井一族5代目・浅井元清

●元清
五郎兵衛 孫四郎 實は窪田助之丞正久が男、元信が養子となる。
寛文十年十二月十五日 富士見番となり、延宝二年十二月十日遺跡を継。子孫世々御家人たり。

※『寛政重脩諸家譜』巻第七百三十九 藤原氏(公季流)浅井

生没年不詳

通称は五郎兵衛または孫四郎。窪田正久の息子が浅井家に養子入りしました。

寛文10年(1670年)12月15日に富士見番を勤め、延宝2年(1674年)に養父の元信が亡くなると、12月10日に家督を継ぎます。

その子孫も代々将軍家にお仕えしたそうですが、『寛政重脩諸家譜』にはこれ以降の記録がありませんでした(ただし分家や庶流などは存続=記録あり)。

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ところで富士見番とはどういう役職?

さて、ここまで三河浅井一族の系譜をたどってきました。

ところで第3代・浅井元貞から第5代・浅井元清(そしてそれ以降)に代々受け継がれている、この「富士見番」とは一体何でしょうか。

ちょっと調べてみたものの、その答えはなかなか見つかりません。書籍でもネットでも見当たりませんでした(もし有力情報がありましたら、ぜひご教示ください)。

よって以下は仮説となりますが、これは江戸城の富士見櫓を指しているのではないでしょうか。

江戸城の天守として使われてきた富士見櫓。ここを元貞たちが守ってきた?(イメージ)

江戸城の富士見櫓と言えば慶長11年(1606年)に築かれ、明暦3年(1657年)に起きた明暦の大火によって焼失した天守閣の再建が断念されて以来、実質的な天守閣として使われてきました。

彼らが元から富士見櫓の番をしてきたのか、それとも天守閣の番役を「富士見番」と呼んだのか、その辺りについては定かではありません。

加えて、富士見番の定員(他に同僚がいたのか)や職務内容・組織体制などについても知りたいところ。

また現代の東京都千代田区に富士見と呼ばれる地名(靖国神社の北側一帯)があり、ここに何か秘密が隠されているのでしょうか。

終わりに

【江戸幕府の役職・富士見番について仮説】

一、江戸城の富士見櫓(焼失前は天守閣)を警護していたのではないか?

一、三河浅井一族が代々受け継いでいるため、名誉職の可能性も?

新しいことが分かったら、また紹介したいと思います。こういうマニアックなことって、調べるの楽しいですよね!

NHK大河ドラマ「どうする家康」に三河浅井一族が登場することは十中八九ないでしょう。でに浅井一族の家紋は「丸に根笹」なので、もしどこかにチラッと家紋が見えたら、彼らが近くにいるも知れませんよ(いるとしたら元貞でしょうか)。

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第4輯』国立国会図書館デジタルコレクション

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