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【歴人録】徳川家斉の父・徳川治済(はるさだ)は実際どんな人だったの?|仲間由紀恵が怪演【ドラマ10大奥】

歴史人物データベース
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NHKドラマ10「大奥」、皆さんも観ていますか?

筆者も毎週楽しみで、画面から目が離せない日々です。

登場人物ひとり一人の応援したくなるような熱さが、フィクションと承知で本作を楽しめる魅力と言えるでしょうか。

一方の悪役においても、単なる主人公たちの引き立て役には留まりません。

それぞれに思想や背景がしっかりと描かれており、際立つ個性が物語を彩ってくれます。

そんな一人が徳川治済(はるさだ)。第11代将軍・徳川家斉の「母」です。

劇中では自分の孫を次々と毒殺、女性同士を仲違いさせてそれを楽しむというサイコパスな人物に描かれていました。

リアルでは絶対に関わりたくないですが、これ以上ないほどにキャラが立っていましたね。

最後は正室の茂姫、側室のお志賀らによって成敗されてしまいましたが、本当にあんなサイコパスだったのでしょうか。

いや、フィクションだと信じたい……という訳で、今回は徳川治済の生涯をたどってみたいと思います。

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将軍の父として権勢を振るった生涯

徳川治済(画像:Wikipedia)

徳川治済は宝暦元年(1751年)11月6日、徳川宗尹(むねただ。一橋宗尹)の四男として誕生しました。

宗尹は第8代将軍・徳川吉宗の四男で、徳川宗家を補佐する御三卿・一橋(ひとつばし)家の初代当主です。

母親は於由加(細田時義女)、幼名を豊之助と言いました。

兄たちが他家を継いだり早世していたりという事情から、宝暦8年(1758年)12月19日、一橋家の世子として徳川の名乗りを許されます。

宝暦12年(1762年)12月1日、豊之助は12歳で元服。第10代将軍・徳川家治から偏諱を賜って治済と改名しました。

やがて明和元年(1764年)に一橋の家督を継ぎ、明和4年(1767年)に在子女王(ざいし/ありこ。京極宮公仁親王王女)を正室に迎えます。

やがて田沼意次が側用人から老中となり、幕政を取り仕切るようになるとこれに反発。

松平定信らと共に反・田沼派として政治工作を展開し、天明6年(1786年)に我が子・徳川家斉が第11代将軍となるや田沼意次を老中より罷免させ、失脚に追い込んだのでした。

さて、邪魔な田沼意次を追いやった治済は向かうところ敵なし。家斉の父親として幕政に隠然たる権勢を振るいます。

そんな天明8年(1788年)、権力欲の留まらない治済は「大御所」になろうと画策しました。

表向きには家斉から持ちかけたそうですが、大御所とは将軍位にあった者に対する尊号。松平定信はこれに反対しました。

これに先んじて朝廷でも似たようなことがあり、光格天皇が実の父親である典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたと言います。

松平定信は君臣の秩序を乱すとしてこれに反対しており、となれば治済については言うまでもありません。

大御所計画が頓挫してしまったことで治済・家斉は定信を怨み、やがて失脚させてしまったのでした。

松平定信(画像:Wikipedia)

かくして次々と政敵を追放し、誰も逆らえなくなった治済にも老いはくるもの。寛政11年(1799年)には隠居し、一橋の家督を六男の徳川斉敦(なりあつ)に譲りました。

幕府からは五万石の賄領(まかない。生活費)と五千両の年金を与えられます。

文政元年(1818年)には出家剃髪して穆翁(ぼくおう)と号し、裘袋(きゅうたい。貴人の皮衣に代わる装束)の着用を許されました。

そして文政10年(1827年)2月20日、77歳の生涯に幕を下ろします。法名は最樹院殿性體寶徹大居士、墓所は上野の寛永寺(東京都台東区)。

死後間もない文政11年(1828年)に内大臣、文政12年(1829年)には太政大臣を追贈されたのでした。

終わりに

以上、徳川家斉の「父」徳川治済について、その生涯を駆け足で紹介してきました。

将軍の父として権勢を極めたことは確かながら、劇中にあったようなサイコパスぶりは窺えません。あくまでフィクションということでお楽しみください。

まだまだ続くドラマ10「大奥」、時代は幕末へと移り変わりますが、これからも目が離せませんね!

※参考文献:

  • 岩沢愿彦ら『徳川諸家系譜 第3』続群書類従完成会、1979年3月

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