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【今さら聞けない】武衛(ブエイ)って何?そして羽林(ウリン)とは?【鎌倉殿の13人】

中世日本
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「親しみを込めて、鎌倉殿のことをブエイ(武衛)って呼んでいいですか」

源実朝(演:柿澤勇人)に対して、そんなことを言い放った和田義盛(演:横田栄司)。

かつて上総介広常(演:佐藤浩市)が三浦義村(演:山本耕史)に騙されて「親友」という意味で使っていたのを覚えていたのでしょう。

でも、そんな昔の事情を知らない八田知家(演:市原隼人)らは鎌倉殿に対する無礼な態度を怒っていました。

後に実朝は「武衛とは兵衛府(ひょうゑふ)のことで、親しみを込めて呼ぶものではない。それに今は羽林(うりん)だ」と優しく説明します。

「参りましょう、ウリン!」

新しい呼び方を覚えて嬉しくなった義盛でしたが、そのせいで北条時政(演:坂東彌十郎)からの大事な伝言を忘れてしまったのでした。

……ということが、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」であったのですが、もちろんこの設定(親友≒武衛と呼ぶ習慣)はフィクションですから、真に受けないで下さい。

ところで、この「武衛」「羽林」とは何でしょうか。実朝は「武衛とは兵衛府のこと」と教えてくれましたが、その兵衛府じたいが分からない方も少なくないでしょう。

そして「今は羽林」に至っては説明すらありません。という訳で今回は、これら武衛と羽林について紹介。

予備知識を仕込んでおくことで、大河ドラマだけでなく、時代劇や古典文学などを幅広く楽しめるかも知れません。

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まずは武衛=兵衛府について

兵衛府とは天皇陛下や皇族にそば近くお仕えし、また護衛するために組織された朝廷の部署(官司)で、歴史は古く飛鳥時代の天武天皇(てんむてんのう。第40代)が創設されたと言われています。

天武天皇御影。『集古十種』より

さらにお近くを守る親衛隊の近衛府(このゑふ、こんゑふ)、御所の門を守る衛門府(ゑもんふ)と合わせて六衛府(ろくえふ。兵衛府・近衛府・衛門府にはそれぞれ左右があるため)と呼ばれました。

ちなみに和訓(訓読み)ではそれぞれ

  • 兵衛府(つはもののとねりのつかさ≒皇室にお仕えする兵たちを司る部署)
  • 近衛府(ちかきまもりのつかさ≒皇室の親衛隊を司る部署)
  • 衛門府(ゆげひのつかさ≒弓を持って御所の門をお守りする部署)

と読みます。音読みもカッコいいですが、やまとことばの訓読みも素敵ですよね。

で、この兵衛府の唐名(とうみょう。中国大陸風のシャレた呼び方)が武衛という訳です。

他にも威衛(いえい。敵を威圧して衛る)、鷹揚(おうよう。鷹が空を舞うように悠然たる強さで護る)などと呼ばれ、いっときは藤原仲麻呂(ふじわらの なかまろ)政権時代に虎賁衛(こほんえい)と改称したことも。

しかし仲麻呂が没落した直後に戻されたので、やっぱり武衛がよかったのかも知れませんね(ちなみに虎賁とは虎が勇み走る意)。

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みんな武衛な訳じゃない…兵衛府に仕える人々

で、その武衛=兵衛府には色んな役職がありまして、こちらも詳しく見ていきましょう。

兵衛督(ひょうゑのかみ)

左右兵衛府の長官(かみ)で、従五位上に相当(後に従四位下相当に改定)。

定員は左右各1名、左右衛門督(ゑもんのかみ)を含めた4人中誰かが検非違使別当(けびいしべっとう。別当は長官)を兼任するのが慣例でした。

唐名は武衛大将軍(ぶえいだいしょうぐん)・威衛大将軍(いえいだいしょうぐん)・鎮軍大将軍(ちんぐんだいしょうぐん)など。カッコいいですね。

兵衛佐(ひょうゑのすけ)

左右兵衛府の次官(すけ)で、正六位下に相当(後に従五位上相当に改定)。定員は左右各1名ですが、定員外の兵衛権佐(ひょうゑごんのすけ)も多く任じられました。

武勇を奮う若き日の「武衛」こと佐殿。月岡芳年「芳年武者无類 左兵衛権佐 源頼朝」

これを権官(ごんかん。権は仮、定員外の意)と言い、かの佐殿(すけどの)こと源頼朝(演:大泉洋)も厳密には権佐(ごんのすけ)です。

余談ながら、軍隊の階級である佐官(さかん。大佐・中佐・少佐)はこれに由来、現代の自衛隊でも継承されています(例:二等海佐)。

唐名は武衛将軍・威衛将軍・鷹揚将軍など(大の字が抜けても十分カッコいいですね)。

兵衛尉(ひょうゑのじょう)

こちらは左右兵衛府の三等官(じょう)で、正七位上相当の大尉(だいじょう)と従七位上相当の少尉(しょうじょう)があります。軍隊の階級である大尉(たいい)・少尉(しょうい)はこれに由来。現代の自衛隊でも「尉」官は継承されています(例:二等海尉など)。

定員は当初左右で各1名だったのがどんどん増えて平安時代末期には各25名に。この辺は地方の有力武士でも多く任じられました。

唐名は武衛校尉(~こうい)・武衛長史(~ちょうし)・威衛長史鎮軍長史など。校尉とは200人隊長を示し、現代でも将校(しょうこう。陸軍における士官の総称)など名残が見られます。

また長史とは将軍の補佐官で、文官的な役割を担うことも(その実態はともかくとして)。

兵衛志(ひょうゑのさかん)

左右兵衛府の四等官(さかん)で、大志(だいさかん/だいし)は従八位上相当、少志(しょうさかん/しょうし)は従八位下に相当します。

後に大志は正八位上、少志は従八位上に改定、定員もそれまでの左右各1名から各2名に増やされました。兵衛尉に比べて見慣れないレアな官職です。

唐名は武衛録事(~ろくじ)・威衛録事鎮軍録事など。「事を記録する」とあるように、書記官のような役割を担ったと言います。

医師(いし)

養老5年(721年)から設置された役職で、その名の通り遺領を担当しました。定員は左右各1名です。

番長(ばんちょう)

現代では不良のボスをイメージしますが、交代番コで護衛の任務に当たる責任者を指しました(現代の番長もこれに由来)。左右兵衛府で各4名が選抜され、次に紹介する兵衛(ひょうゑ)たちを指揮します。

兵衛(ひょうゑ)

御所を警護する兵衛たち(イメージ)

いわゆる一般兵士で、定員は左右兵衛府で各400名。各国から国司の推薦によって任官しました。

  • 八位以上六位以下の嫡男≒郡司クラスの子弟
  • 21歳以上であること
  • 弓馬に巧みであること

やがて大同3年(808年)には定員各300名、寛平3年(891年)には定員各200名にまで削減。官庁同士の力関係(近衛府の新設による勢力削減)が窺われます。

直丁(じきてい)

兵衛府直属の雑役責任者。左右兵衛府で各2名が当てられました。

廝庁(してい)

こちらも雑役責任者ですが、直丁のために汲炊(きゅうすい。水汲み飯炊き)などを分担しました。左右兵衛府で各4名が割り当てられます。

府生(ふせい、ふしょう)

兵部省(ひょうぶしょう)から出向している下級職員。中央省庁から来ているためか武衛史(ぶえいし)・参軍事(さんぐんじ)などの唐名も。

参軍とは作戦立案を担当する参謀・軍師に相当し、それを補佐する立場と考えられます。

案主(あんじゅ)

文書の記録や作成、保管などの責任者。定員は左右兵衛府で各1名が当てられました。

府掌(ふしょう、ふじょう)

兵衛府の実務を監督する職務で、定員は左右兵衛府で各1名。

吉上(きちじょう)

兵衛府の下卒で、兵衛よりも更に身分の低い立場。現場は番長⇒兵衛⇒吉上という指揮系統で運用されました。

定員などは不明、予算や状況などに応じてその辺の破落戸などを掻き集めたり召し放ったりしたものと考えられます。

使部(つかいべ)

いわゆる召使い。左右兵衛府で各30名が割り当てられ、直丁や廝庁に使われました。

駕輿丁(がよてい)

輿(こし)の担ぎ手で、左右兵衛府で各50名が割り当てられたと言います。

以上、武衛こと兵衛府に仕える人々(各職)を紹介してきました。厳密には武衛と呼ばれない者もいたのですね。

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羽林こと近衛府について

続いて羽林こと近衛府について。お察しの通り、羽林とは近衛府の唐名です。こっちも各職を紹介していきましょう(下層の重複する役職は除く)。

近衛大将(このゑのたいしょう)

左右近衛府の長官(かみ)に相当し、もちろん定員は各1名。位階は正三位⇒従四位上⇒従三位相当と移り変わりました。

右近衛大将となった頼朝公。

右近衛府の大将なら右近衛大将(うこのゑのたいしょう)、左近衛府なら左近衛大将。唐名は羽林大将軍親衛大将軍(しんえい~)・虎牙大将軍(こが~)など、ほか幕府(ばくふ)・幕下(ばくか)とも。

かつて源頼朝が右近衛大将に任じられたため、その唐名が幕府であるから鎌倉幕府(武家政権)の成立を建久元年(1190年)11月24日であるとする説もあります。

(※ただしこの説に基づくと足利幕府・徳川幕府との共通点が損なわれてしまいます)

近衛中将(このゑのちゅうじょう)

左右兵衛府の次官(すけ)に相当し、次の近衛少将も「すけ」であるため「おおすけ(おおいすけ)」と呼んで区別しました。

定員は左右で各1~4名、権官もあり権中将と呼ばれます。

唐名は親衛中郎将(ちゅうろうじょう)・親衛将軍羽林将軍など、ほか次将(じしょう。大将に次ぐ)・三笠山(みかさやま)とも。

三笠山とは奈良・春日大社の裏山で、天皇陛下を雨風からお守りする三つの笠、転じて大将・中将・少将をまとめた雅称となったのです。

近衛少将(このゑのしょうしょう)

中将と同じく左右兵衛府の次官(すけ)に相当し、特に呼び分ける時は「すない(少ない)すけ」と呼ばれます。

定員は左右で各2~4名、こちらも権官が設けられ権少将と呼ばれました。

唐名は羽林郎将(うりんろうじょう)・親衛郎将(しんえいろうじょう)・亜将(あしょう。亜は次ぐ意)・虎賁中郎将(こほんちゅうろうじょう)など。

将監(しょうげん)

左右兵衛府の三等官(じょう)に相当し、定員は左右兵衛府で各1~10名。従六位上に相当し、現場の指揮を担当しました。

唐名は参軍親衛軍長吏(~ちょうり)・親衛校尉録事などと呼ばれます。

将曹(しょうそう)

左右兵衛府の四等官(さかん)に相当、定員は左右兵衛府で各4~20名。従七位下に相当し、将監の下で現場を指揮します。

あと府生・番長・近衛……など。こちらもみんながみんな羽林ではなく、特に少将以上を指したようです。

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終わりに

以上を踏まえて、実朝が「武衛(右兵衛権佐)」となったのは建仁3年(1203年)10月24日、そして「羽林(右近衛権中将)」となったのは元久2年(1205年)1月29日。

「武衛」から「羽林」になった実朝。

確かに「牧氏の変」が起こった元久2年(1205年)閏7月時点では「武衛ではなく羽林」になっています。

その後、建保7年(1219年)1月27日に暗殺されるまで生涯「羽林」。ちなみに極官(ごくかん。生涯最高官職)は右大臣(左近衛大将は兼任)でした。

「ウリン、ウリン!」

新しい呼び名を覚えて大喜び?の義盛。きっと建暦3年(1213年)5月3日に討死するまで、実朝を「ウリン!」と呼び続けることでしょう。

あるいは(やっぱり、ブエイの方がいいな……)と思って、最後の最後で「武衛!」と呼ぶかも知れません。どっちにせよ、義盛にとって二人の絆を表す呼び名として今後何回も出てくるはずです。

※参考文献:

  • 阿部猛ら編『日本中世史事典』朝倉書店、2008年11月
  • 笹山晴生『平安初期の王権と文化』吉川弘文館、2016年11月
  • 所功 校訂『官職要解 新訂』講談社学術文庫、1983年11月

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