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【鎌倉殿の13人】橋を落とすにはどうすれば?エリートも凡人も、力を合わせて戦った鎌倉武士たちの雑談

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一口に「戦さ」と言っても、そのなすべき事や与えられた任務は人や立場によって様々で、それぞれ専門外のことはさっぱりであることも少なくありません。

例えば名将と呼ばれるような人物が、数百から数千、数万という大軍を手足のごとく動かして勝利をもたらす一方で、戦場ではごく常識的なノウハウも知らないなど、より合理的に勝利を追求する上で、軍隊も分業化が進んでいきました。

今回は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡(あづまかがみ)』より、御家人たちのエピソードを紹介したいと思います。

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梶原景時の最期について

時は正治2年(1200年)2月6日、御家人たちが侍所(さむらいどころ)に集まって雑談に興じていました。

その場にいたメンバーは以下の通り。

菊池容斎『前賢故実』より、和田義盛。

安藤右宗(あんどう すけむね。信濃国)
小山朝政(おやま ともまさ。下野国)
渋谷高重(しぶや たかしげ。相模国)
長沼宗政(ながぬま むねまさ。下野国)
畠山重忠(はたけやま しげただ。武蔵国)
和田義盛(わだ よしもり。相模国)

その時、前年に失脚し、粛清されてしまった梶原景時(かじわらの かげとき)が話題に上り、渋谷高重が口火を切ります。

「梶原の野郎、逃げるなら道中の橋を落として時間稼ぎでもすればよかったものを、よほど慌てていたんだろうな。何の手も打たず橋を落とさなかったモンだから、すぐ追いつかれて殺られちまった。口ほどにもねぇな」

【原文】景時、近辺の橋を引き、しばらく相ひ支ふべきのところ、左右(そう)無く逐電し、途中におひて誅戮(ちゅうりく。処刑されること)に逢ふ。兼日の自称に違へり

『吾妻鏡』より。

そうだそうだ、バカなヤツめ……みんな口々に貶し、嘲笑います。何だかイジメみたいですが、景時は亡き主君・源頼朝(みなもとの よりとも)公の懐刀として嫌われ役を引き受けており、それでかねがね嫌われていたのでした。

馬込万福寺蔵・梶原景時肖像。

また「兼日の自称に違へり」とあるように、頼朝公から篤く信頼されていたことを鼻にかけていたのでしょう。そんな景時が粛清されたことを「ザマぁねぇな」と笑います。

しかし、そんな中で畠山重忠だけは亡き景時をかばいました。

「あれは突然のことであったから、堀を掘ったり(当然、その発生土で土塁を築いたり)橋を落としたりする余裕はなかったろう。そう難癖をつけるものではない」

【原文】縡(こと。事)楚忽(そこつ)に起こり、樋(ひ)を鑿(うが。穿)ち橋を引くの計あるべからず。難治(なんじ)か

『吾妻鏡』より。

古来「死人に口なし」と言うように、反論できない者をあれこれ言うのは卑怯ではないか……さすが「鎌倉武士の鑑」と称えられた畠山重忠らしい正義感ですが、これを聞いた他の御家人たちは苦笑します。安藤右宗が言いました。

弱小武士団のひがみ?

「さすが、畠山殿は大名にございますなぁ……橋を落としたり城郭を築いたりなんて、やったことなどないんでしょう。橋を落としたければ、その辺の手ごろな小屋でもぶっ壊した廃材を乗せて火ぃつければ、橋を焼き落とすなんて訳もありませんや」

【原文】畠山殿はただ大名許(ばか)りなり。橋を引き城郭を構ふる事、存知せられざるか。近隣の小屋を橋の上に壊(こぼ)ち懸け、火を放ち焼き落とすこと、子細有るべからず

『吾妻鏡』より。

大名とは江戸時代のような幕藩体制による職名ではなく、単に「大きな武士団の棟梁」程度の意味です。じっさい畠山重忠は坂東(関東地方)でも有数の大勢力を誇っており、安藤右宗とは比較になりませんでした。

菊池容斎『前賢故実』より、畠山重忠。

(※他の御家人たちも決して勢力は小さくなかったものの、大抵は自分が棟梁になるまでの下積み時代があり、畠山重忠のような生まれついてのエリートはなかなかいません)

戦上手として数々の勝利を収めて来た畠山重忠ですが、彼が優れていたのは用兵であり、自ら弓を取って敵を倒すようなことはまずありません。

もし彼が橋を落としたければ「落とせ」と一言命じるだけでよく、後は郎党や家人たちの仕事。決して自分が手を汚す必要もありませんでした。

橋を焼き落とす(イメージ)

「まぁ、しょせん自分たちとは住む世界が違うお方ですよね。分かってますよ……ケッ」

「畠山殿ほど恵まれていりゃあ、そりゃそんなキレイゴトも言えますわな……ケッ」

安藤右宗だけでなく、少なからぬ御家人たちがそんな鬱屈した思いを抱えていたのかも知れませんね。

終わりに

しかし、どこの出身でどれほどの格差があっても、御家人たちはみんな「鎌倉殿の直参(※)」であり、かつて頼朝公の御為に「いざ鎌倉」と馳せ参じた仲間意識があったようです。

力を合わせて、鎌倉殿の御為に。揚州周延「源平盛衰記 畠山重忠 源義経 弁慶」

(※)じきさん:主君に直接仕える者。直臣とも。その家来(家来の家来)は陪臣(ばいしん)。

みんながみんな仲良しではないし、それぞれ思うところもあるけれど、我らが鎌倉殿を盛り立てて、武士の世を切り拓くため、誰もが心を一つに力を尽くしたのでした。

※参考文献:
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月
貫達人『畠山重忠 (人物叢書)』吉川弘文館、1987年3月
清水亮『中世武士 畠山重忠: 秩父平氏の嫡流 (歴史文化ライブラリー)』吉川弘文館、2018年10月

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