New! 源方理はなぜ失脚した?その理由は

冷酷すぎ!和田合戦の原因は(ほぼ)北条義時の挑発(せい)だった【鎌倉殿の13人】

鎌倉時代
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源頼朝(演:大泉洋)亡き後、権力抗争により粛清の嵐が吹き荒れる鎌倉。

梶原景時(演:中村獅童)や比企能員(演:佐藤二朗)、畠山重忠(演:中川大志)に北条時政(演:坂東彌十郎)まで……。

生き残った強豪は三浦義村(演:山本耕史)と和田義盛(演:横田栄司)ら三浦一族のみ。

父・時政を追放して権力の座に就いた北条義時(演:小栗旬)としては、何としてでも彼らを滅ぼしたいところです。

和田今まで共に戦ってきた同志であろうと、北条一族の独裁を阻む者には死あるのみ(イメージ)

まずは和田義盛を標的に。さっそく挑発の限りを尽くして挙兵させ、それを謀叛として鎮圧する作戦を決行。

後世に伝わる和田合戦の幕開けです。

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不公平な人事に一族への辱め……『吾妻鏡』もかばい切れない義時の悪行

和田合戦の引き金となった要因は大きく2つ。一つは上総国司の推挙、もう一つは泉親衡(いずみ ちかひら)の乱です。

【上総国司の推挙】

時は承元3年(1209年)、義盛は鎌倉殿・源実朝(演:柿澤勇人)に上総国司の推挙をお願いしました。
永年奉公してくれた和田の爺に報いてやりたい実朝。しかし母・政子(演:小池栄子)はこうたしなめます。

「御家人の国司推挙はしないと、亡き大殿(源頼朝)がお決めになりました」

私情でルールは変えられず、何も言えなくなってしまう実朝。

相模・武蔵の両国を押さえ、権力基盤を固める北条一族(イメージ)

でも義時は相模国司、北条時房(演:瀬戸康史)も武蔵国司ではありませんか。

北条は鎌倉殿の身内だから特別扱い……義盛や他の御家人たちは納得が行きません(ただし八田知家など、北条でなくても国司になっている者がいない訳ではありませんが)。

結局、義時と自分の板挟みになっている実朝を気の毒に思った義盛は承元5年(1211年)に願いを取り下げてしまいます。

これが和田と北条の間にわだかまりを生んだことは言うまでもありません。

【泉親衡の乱】

そんな建暦3年(1213年)、泉親衡による栄実(えいじつ。源頼家の遺児)を担いだ謀叛計画が発覚。

謀議には義盛の息子である和田義直(演:内藤正記)と和田義重(演:林雄大)そして甥の和田胤長(演:細川岳)が加担していました。

「これは何かの間違いです!どうかこれまでの忠義に免じて、息子たちを釈放して下さい!」

義盛が実朝に泣き落としたことにより、義直と義重については釈放されました。しかし、謀叛の首謀格であった胤長についてはさすがにお預けとなります。

「鎌倉殿は甘いのです!こういうのは一度認めてしまうと癖になります。あぁ言う連中は徹底的に懲らしめてやらねばなりません!」

和田一族の前で辱めを受ける胤長(イメージ)

そう言った義時が何をしたかと言いますと、和田一族99人(義盛含む)の面前で胤長を縛り上げた上、その烏帽子をひっぺがしました。

当時の成人男性にとって、頭髪をさらされるのは下着を脱がされるにも匹敵する恥辱。

ここまでするか!?胤長を謀叛人として処罰するまではともかく、流石にやり過ぎでしょう。北条びいきの『吾妻鏡』も流石にこれは擁護し切れず、

……義盛之逆心職而由之云々。

【意訳】義盛が謀叛を起こした原因はこれである(≒あんなことされれば、怒るのも仕方ないよね)。

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)3月9日条

と書いています。けっきょく胤長は陸奥国へ流され、父と引き離された愛娘・荒鵑(こうけん)は悲しみのあまり6歳で亡くなってしまいました。

更には和田一族に下げ渡された胤長の館を、義時が強引に横取り。一応合法的な手続きはとっているものの、当時の慣例を無視したあんまりな手口。

こうして和田一族は打倒北条の兵を挙げることとなるのでした。

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友を喰らった(和田義盛を裏切った)三浦一族の末路

以上、和田合戦の原因についてざっと紹介してきました。

和田一族にまったく非がないとは言えないかも知れませんが、比重としてはどうしても義時の挑発が原因と言えるでしょう。

果たして建暦3年(1213年)5月2日から3日にかけて鎌倉を火の海にする激戦が勃発。義盛はじめ一族はそのほとんどが討ち滅ぼされてしまうのでした。

和田合戦で武勇を奮う朝比奈義秀。歌川豊国筆

なお、和田合戦においては一族の長老であった義盛を裏切り、義時に味方した三浦義村。以来彼らは「三浦の犬は友を喰らう(身内すら裏切る)」と軽蔑されることとなります。

しかしそれから30数年後、宝治合戦(宝治元・1247年6月5日)において三浦一族(義村の子・三浦泰村ら)は北条氏(義時の曾孫・北条時頼ら)に滅ぼされてしまいました。

あの時、和田と一緒に北条を滅ぼしていれば……燃え盛る法華堂(現:頼朝公の墓)で自害する直前、三浦一族は悔やんだかも知れませんね。

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 7頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月

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