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和田義盛と巴御前の子供?和田合戦で大暴れした朝比奈義秀(栄信)の武勇伝【鎌倉殿の13人】

鎌倉時代
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朝比奈義秀(栄信)

和田義盛の三男。武勇に秀で、戦場では父・義盛と共に奮戦する。

※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより。

和田義盛(演:横田栄司)には8人の息子がいますが、中でも有名なのがこの朝比奈義秀(あさひな よしひで)

人間離れした怪力の持ち主で、数々の伝説を残した義秀は、もちろん和田合戦(建暦3・1213年5月2~3日)でも大活躍。

栄信演じる朝比奈義秀。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより

今回はそんな義秀のエピソードを紹介、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習になれば幸いです。

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巴御前との子供?そう思わせる怪力ぶり

朝比奈義秀は平安時代末期の安元2年(1176年)、和田義盛の三男として誕生しました。

母親は不明、『源平盛衰記』ではあまりの怪力ぶりから巴御前(演:秋元才加)との間にできた子と言います。ただし、生年が合わない(※)ためフィクションと思われます。

(※)和田合戦の時点で38歳という年齢を逆算して生年を割り出しているものの、これがもし28歳(文治2・1186年生まれ)の間違いであれば可能性が見えるでしょうか。とは言え、そもそも巴御前じたいが『吾妻鏡』に登場しないため、創作の人物とする説も根強いです。

和田義盛と巴御前。力自慢の夫婦から、怪力の義秀が生まれた?(イメージ)歌川国芳筆

そんな義秀の怪力エピソードと言えば、源頼家(演:金子大地)のお供で舟遊びに出た際、海中に潜ってサメを素手で捕まえたのが有名です。

すっかり興奮した頼家が褒美に名馬を与えようとしたところ、長兄の和田常盛(つねもり)がこれに抗議。名馬をめぐって兄弟の相撲対決に及んだ結果、引分けのどさくさに名馬を奪われてしまったのでした。

また、鎌倉七口(山で囲まれた鎌倉市中へ入る七つの切通し)の一つ・朝夷奈切通は義秀が一晩で開削したとも言われています。さすがにあり得ないと思いますが「義秀ならやりかねない」と思わせるところが、彼の彼たる所以です。

海中でサメを捕まえた義秀。菊池容斎『前賢故実』より

さぁ、いよいよ和田合戦。鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』から、義秀の大活躍をピックアップしていきましょう。

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和田合戦・1日目(5月2日)の活躍ぶり

……而朝夷名三郎義秀敗惣門。乱入南庭。攻撃所籠之御家人等。剩縱火於御所。郭内室屋。不殘一宇燒亡……

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月2日条

【意訳】朝比奈義秀は御所の惣門をぶち破り、その中へと乱入して立て籠もっていた御家人たちを攻撃した。そして火を放って御所の建物をことごとく焼き払ったのであった。

御所の惣門をぶち破った義秀。右で北条泰時が応戦。歌川国芳筆

……就中義秀振猛威。彰壯力。既以如神。敵于彼之軍士等無免死……

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月2日条

【意訳】奮戦する和田一族の中でも、得に義秀の猛威はすさまじく、神のごとき壮絶な力をもって敵(北条方)の将兵は死を免れる者がいなかった。

……爰義秀未騎馬之際。相摸次郎朝時取太刀。戰于義秀。比其勢。更雖不耻對揚。朝時主逢蒙疵也。然全其命……

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月2日条

【意訳】義秀が馬に乗ろうとしているところへ、相模次郎こと北条朝時(演:西本たける)が斬りかかってきたがこれを撃退。朝時は負傷して、命からがら逃げだした。

……又足利三郎義氏。於政所前橋之傍相逢義秀。々々追取義氏之鎧袖。縡太急兮。義氏策駿馬。令飛隍西。其間鎧袖絶從中。然而馬不倒。主不落。義秀雖勵志。合戰數剋。乘馬疲極之間。泥而留于隍東。論兩士之勇力。互無強弱揚焉也。見者抵掌鳴舌。義秀猶廻橋上。擬追義氏之刻。鷹司官(冠)者隔其中。依相支。爲義秀被害。此間義氏得遁奔走云々……

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月2日条

【意訳】足利義氏(あしかが よしうじ)は政所の前で義秀と遭遇すると恐れをなして逃走。義秀はこれを追い駆けて鎧の袖を引きちぎった。義秀の乗馬は疲れていたため追いつけず舌打ちする。

大暴れする朝比奈義秀と、立ち向かう者たち。歌川豊国「和田合戦図」

なおも追いすがると義氏の郎従・鷹司冠者(たかつかさのかじゃ)が立ちはだかるも、これを難なく討ち取る。そのお陰で義氏は逃げおおせたのであった。

……又武田五郎信光。於若宮大路米町口。行逢于義秀。互懸目。已欲相戰之處。信光男惡三郎信忠馳入其中。于時義秀感信忠欲代父之形勢。馳過畢……

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月2日条

【意訳】武田信光(たけだ のぶみつ。武田信義の子)は米町口で義秀と遭遇。

手合わせを挑んだところ武田信忠(のぶただ。信光の子)が「父上、ここはそれがしが!」と名乗り出た。義秀はその親孝行に免じて武田父子を見逃してやった。

……以上が、5月2日における朝比奈義秀の主な武勇伝。たった一人でここまで暴れ回るとは、まさしく鬼神のごとしです。

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和田合戦・2日目(5月3日)の活躍ぶり

合戦は申刻(午後4:00ごろ)から深夜に及びました。すでに敗色濃厚な和田勢でしたが、日付が変わって5月3日の寅刻(午前2:00ごろ)、妻の実家である横山党(よこやまとう。武蔵国)が応援に駆けつけます。

……鎭西住人小物又太郎資政攻入義盛之陣。爲義秀被討取……

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月3日条

これで和田勢も元気を取り戻し、義秀は鎮西の住人・小物又太郎資政(こもの またたろうすけまさ)を討ち取る武功を立てました。

……義淸。保忠。義秀等並三騎轡。攻四方之兵。御方之軍士退散及度々……

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月3日条
和田一族に負けじと奮戦する土屋義清と古郡保忠。歌川豊国「和田合戦図」より

また土屋義清(つちや よしきよ)・古郡保忠(ふるごおり やすただ)とトリオで敵中へ殴り込みをかけ、あまりの凄まじさに味方まで逃げ散ってしまうほどだったと言います。

……朝夷名三郎義秀〔卅八〕并數率等出海濱。棹船赴安房國。其勢五百騎。船六艘云々……

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月3日条

しかし武運拙く和田勢は敗北。総大将の義盛が討ち取られると、義秀たちは浜辺から船を出して鎌倉を脱出。共に脱出した軍勢は500騎、船は6艘と言いますから、結構大きな船(当分すると約80~90名乗り)ですね。

そのまま逃げ切れるかと思ったのですが、5月6日の記録では義秀も討ち取られた扱いに。ただし『和田系図』によれば高麗(朝鮮半島の古代王朝)へ逃げ延びたと伝えられます。

天下無双大力父滅亡之時乗舟渡房州、遂越高麗国方々時三十五(八イ)歳

※『和田系図』より

【意訳】天下に無双(ならびな)き大力。父が滅亡した時に船に乗って房州へ渡り、ついには高麗国の方へ渡った時、35歳(38の意≒誤記)だった。

信憑性のほどはともかく「義秀ならやりかねない」というロマンが感じられます。あっちでも、何か武勇伝が残っていたら(発見できたら)胸が熱くなりますね。

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『和田系図』に見る義盛一家のプロフィール

以上が朝比奈義秀の生涯となります。

せっかくなので、『和田系図』より義盛一家の記述もそれぞれ見ていきましょう。

和田義盛 左衛門尉、小太郎

母遊女字玉、建暦三年二月十五日千葉介成胤廻文法師一人捕進将軍、彼法師白状内、子息義直、義重、甥胤長、合三人有之、将(軍)家於両息事者、義盛多年忠功故、被父方帰、其後名字中一味同心参、胤長事訴申、無御許客(容)、五月二日逆心、子息五人於一所被誅、義盛江戸七郎左衛門能範被誅、六十七歳

【意訳】杉本太郎義宗(すぎもと たろうよしむね)の子で、母は遊女の(たま)。

建暦3年(1213年)2月15日に千葉介成胤(ちばのすけ なりたね)が謀叛をそそのかす法師を捕らえ、鎌倉殿に突き出した。供述によると謀叛の共謀者に子息の和田義直と和田義重、甥の胤長と合計3人がいた。

頼朝公の挙兵以来、永年にわたって忠義を尽くしてきた和田義盛。だからこそ、今回の件が惜しまれる。

将軍家は息子二人を義盛の忠功に免じて赦したが、主謀格の胤長は赦さなかった。5月2日に謀叛の兵を挙げ、子息5名と一緒に誅された。義盛は江戸七郎左衛門能範(えど しちろうざゑもんよしのり)に討ち取られた。享年67歳。

和田常盛 新左衛門尉

父滅亡時、遁而於甲州被誅、四十二歳

【意訳】父が滅亡した時、鎌倉を脱出して甲州で討たれた。享年42歳。

和田義氏 和田次郎

父同被誅、手越宿呼帰、合戦後父同被誅畢、四十歳

【意訳】和田合戦の当時は手越宿へ戻っていたが、合戦後に連座で討たれた。享年40歳。

※『吾妻鏡』では和田合戦の討死リストに入っていないため、合戦時には鎌倉にいなかったことが判ります。

和田義秀 朝印南三郎

天下無双大力父滅亡之時乗舟渡房州、遂越高麗国方々時三十五(八イ)歳

【意訳】前掲の通り。

内藤正記演じる和田義直。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより

和田義直 金窪四郎左衛門尉

父同被誅伊具馬次郎盛重被誅三十七歳

【意訳】父と同じく討死。伊具馬次郎盛重(いぐ うまじろうもりしげ)に討たれた。享年37歳。

和田義重 五郎兵衛尉

父同被誅三十八歳

【意訳】父と同じく討死。享年38歳。

義直(享年37歳)より年上になっていますが、これは母親が側室であったため、弟扱いにされた(当時は実年齢よりも元服の順によって兄弟の序列が定まる)ためと考えられます。

和田義信 六郎兵衛尉

父同被誅二十八歳

【意訳】父と同じく討死。享年28歳。

和田秀盛(廣義イ) 七郎

父同被誅十五歳

【意訳】別名、和田廣義。父と同じく討死。享年15歳。

杉本義國 八郎

最後の義國は何もコメントがありません。彼は和田一族の滅亡後、かねて継承していた杉本の苗字と、宗族の三浦を合わせて杉浦と名乗ります。

以上、義盛と息子8人について見てきました。

名前の後に官職(左衛門尉、兵衛尉など)がついているのは恐らく正室の子、ついていない子(義氏、義秀、秀盛、義國)は側室が生んだのでしょう(ただし正室・側室ともにすべて同母とは限りません)。

細川岳演じる和田胤長。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより

そして最後に和田胤長の記述も見てみましょう。

胤長

同平太童名奥田丸、依逆心奥州岩瀬郡被配流、義盛謀反此人故也、義盛被誅後、於岩瀬被誅……。

【意訳】幼名は奥田丸。謀叛によって奥州岩瀬郡(現:福島県須賀川市)へ流罪となる。義盛が謀叛を起こしたのはこの者のせいである。義盛が討たれた後、胤長も現地で処刑された。

……以上となります。

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終わりに

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、名前が出るのは鬼神のごとく大活躍する朝比奈義秀、そして泉親衡の乱で捕らわれる3名のみ(後はすべてモブ扱い)のようです。

【大河ドラマに登場する和田一族・キャストまとめ】

林雄大演じる和田義重。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより

朝比奈義秀(演:栄信)
和田義直(演:内藤正記)
和田義重(演:林雄大)
和田胤長(演:細川岳)

短い出番とはなりますが、熱血で知られる和田一族の皆さん。その全力演技を、じっくり堪能させていただきましょう。

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 7 頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月
  • 高橋秀樹『三浦一族の研究』吉川弘文館、2016年5月
  • 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1985年11月

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