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【北条義時の死因】暗殺、毒殺、それとも……大河ドラマはどの説を採用?【鎌倉殿の13人】

鎌倉時代
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令和4年(2022年)NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。

鎌倉幕府の第2代執筆・北条義時(ほうじょう よしとき)の生涯を描いた予測不能エンターテインメントもいよいよ最終盤。早くもロスに陥っている方も少なくない(少なくとも筆者だけではない)ようです。

さて、脚本の三谷幸喜さんは主人公・義時の死(『吾妻鏡』では元仁元・1224年6月13日)をもって物語の終幕とするようですが、北条義時の死因には諸説あると言います。

これまで重ねてきた数々の粛清劇を思えば、畳の上で安らかな最期……では視聴者が納得しないかも知れません。

果たして義時は、どんな最期を迎えるのか。『承久記絵巻』より

(あえてそう描いて、モヤモヤする視聴者の反応を楽しむ可能性もありそうです)

果たして三谷幸喜がどんな結末を描くかはさておき、今回は『吾妻鏡』『保暦間記』『明月記』から義時の最期と死因を紹介。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」最終回の予習にどうぞ。

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義時の死因その1:普通に病死する『吾妻鏡』

前奥州病痾已及獲麟之間。以駿河守爲使。被申此由於若君御方。就恩許。今日寅尅。令落餝給。巳尅〔若辰分歟〕。遂以御卒去〔御年六十二〕。日者脚氣之上。霍乱計會云々。自昨朝。相續被唱弥陀寳号。迄終焉之期……

【意訳】義時の病はいよいよ重く、ついに臨終を迎えようとしていました。そこで三男の北条重時(しげとき)が、五男の北条政村(まさむら)とその母である伊賀局(いがのつぼね。伊賀氏)に伝えます。

寅刻(午前4時ごろ)に臨終出家、巳刻(午前10:00ごろ)もしくは辰刻(午前8:00ごろ)に臨終です。享年62歳。

かねて脚気を患っていたことに加え、霍乱(かくらん。急性腸炎、暑気あたりとも)を併発したため、昨日の朝から息絶えるまでずっと阿弥陀様の念仏を唱え続けていたのでした。

※『吾妻鏡』元仁元年(1224年)6月13日条

……何ともつまらない、と言うと失礼ですが、ごくまっとうな展開がこちら。義時の最期を看取ったのは伊賀局と三男の重時、そして五男の政村です。

遠く京都で任務を遂行、義時の死に目に会えなかった泰時(イメージ)

長男の北条泰時(やすとき)はこの時、叔父の北条時房(ときふさ。義時の弟)と共に京都を守護しており、死に目には間に合いません。

そのほか明記されていないので最期に立ち会ったかはともかく、次男の北条朝時(ともとき)と四男の北条有時(ありとき)、六男の北条実義(さねよし。後に実泰と改名)は近くにいました(葬儀に参列しているため)。

義時は一心に念仏を唱えるかたわら、妻や息子たちに何を言い残したのでしょうか。

義時「家督は、太r(泰時)……ぐむっ(口をふさがれる)」

伊賀局「聞こえませぬ。え?五郎(政村)ですか?はい、かしこまりました。三郎(重時)、しかと聞きましたね」

政村、重時「「……」」

そんなやりとりがあったかどうか、いずれにせよ後継者をハッキリ決めておかなかったことから、間もなく「伊賀氏の変」が起こるのでした。

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義時の死因その2:家臣に暗殺される『保暦間記』

……元仁元年六月一二日六十三歳義時思外ニ近ク召仕ケル若侍ニツキ殺サレケリサシモ十善帝王ノ勅命ニ背ノミナラス居ナカラ打勝進ラセレカ共業因ノカレカタキニヤ懸ル不思議トモ□ホウシテ逝去シ玉ヒヌ……

【意訳】元仁元年(1224年)6月12日、63歳の義時は思いもよらず、若い近習によって突き(刺し)殺されました。

不届きにも十善帝王(天皇陛下。ここでは後鳥羽上皇のこと)の命に背いたばかりか、謀叛を起こした罪業から逃れることはできないのです。

かくして人智を超えた因縁により、悪行の報いを受けたのでした。

※小瀬道甫『保暦間記』より

こちらは「義時実は暗殺された説」。日付と年齢が『吾妻鏡』と違うものの、これは恐らく単純ミス(誤差)と考えられます。

隠岐島へ流された後鳥羽上皇。

畏れ多くも後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に逆らったばかりか一戦交え、挙句に負かして島流しにしまった義時。そんな史上稀にみる「逆賊」に、非業の死という天罰が下って欲しいという願望が、こんなストーリーを生み出したのでしょう。

しかし、執権を暗殺するなんて大それた犯行に及びながら、その名前などは一切不明。もし事実なら『吾妻鏡』を編纂した北条氏当局は隠すでしょうが、藤原定家『明月記』のような第三者の日記にもそうした記述は見られないため、伝承の域を出ないものと考えられます。

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義時の死因その3:妻に毒殺される『明月記』

……只早頭をきれ、若不然は又義時か妻か義時にくれ遣さむ薬されこるてくはせて早ころせ……

【意訳】早く首を刎ねろ。さもなくば、義時の妻(伊賀局)が義時に飲ませた薬を飲ませて早く殺すがいい。

※『明月記』安貞元年(1227年)6月11日条

これは承久の乱(承久3・1221年5~6月)に与するも敗れ、6年間の潜伏後に捕らわれた僧侶・尊長(そんちょう)の発言です。

「早く殺せ。斬首でも毒でもいいから」とのことで、義時が伊賀局に毒殺されたと聞いた御家人たちはさぞ驚いたことでしょう。

「嘘を申せ!」詰問に対しても尊長は「これから死ぬ我らが、嘘など言ってどうするのだ(なんでう只今しなんずる我等、などか人に被語て虚言はいはむ)」と反論します。

まさか、伊賀局が……(イメージ)

一理あるように聞こえるものの、どうせ死ぬならせめて混乱させてやれ、という動機も考えられます。

また6年間の潜伏中、遠く鎌倉で義時がどんな死に方をしたかなど、詳しい情報が得られたとも考えにくいもの。

恐らく「そんな噂が流れていた」程度の話を、公の場で言ったことが問題視されたのでしょう。ともあれ伊賀局が義時を毒殺した説については、今後何らかの根拠が出るまでは眉唾物と見るのが妥当です。

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終わりに

『吾妻鏡』など………病死

『保暦間記』など……暗殺

『明月記』など………毒殺

以上、3史料より義時の死因を紹介してきました。果たしてNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではどの説が採用されるのでしょうか。

あるいはかつて源頼朝(みなもとの よりとも)が急死した時のように、様々な要素をからめてどの説もありそうな演出を仕掛けてくる可能性もあります。

あなたは、どの説だと思いますか?

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡9 執権政治』吉川弘文館、2010年11月
  • 小瀬道甫『保暦間記 上下』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 藤原定家『明月記 第三』国書刊行会、1912年2月

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