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【鎌倉殿の13人】武蔵坊弁慶だけじゃない!源義経を支えた「義経四天王」を紹介

伝承民俗
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義経「武蔵坊、派手にやれ!」
弁慶「心得た!」

※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第12回放送「亀の前事件」より

源義経(演:菅田将暉)の傍らに控え、その怪力を奮う武蔵坊弁慶(演:佳久創)。彼の外にも数名の家来たちが義経を取り巻いているものの、ドラマの都合で割愛されてしまっています。

知らなくても別に困りませんが、知ると大河ドラマがもっと楽しくなるかも……ということで、今回は義経に仕えた郎党たちの中から選りすぐりの「義経四天王」を紹介。

個性豊かな仲間たちが、義経の魅力をより高めてくれたことでしょう。

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義経四天王のメンバーはこちら

で、義経四天王の顔ぶれは、概ねこんな感じになっています。

義経四天王の一例。歌川芳虎「名将四天鑑 伊予守源義経朝臣」
  • 鎌田藤太盛政(かまだ とうたもりまさ)
  • 鎌田藤次光政(かまだ とうじみつまさ)
  • 佐藤三郎継信(さとう さぶろうつぐのぶ)
  • 佐藤四郎忠信(さとう しろうただのぶ)
  • 伊勢三郎義盛(いせ さぶろうよしもり)
  • 片岡太郎常春(かたおか たろうつねはる)
  • 亀井六郎重清(かめい ろくろうしげきよ)
  • 駿河次郎清重(するが じろうきよしげ)
  • 常陸坊海尊(ひたちぼう かいそん)
  • 武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)

……何でいきなり10人も出てくんねん!と思われたでしょうが、作品や伝承によって顔ぶれが違うのです。

(※)もし他にも「この人が抜けているよ」「あの人が四天王とされた伝承もあるよ」という情報がありましたら、是非ご教示ください。

鎌田藤太盛政&鎌田藤次光政

鎌田盛政:生年不詳~元暦2年(1185年)2月7日没

鎌田光政:生年不詳~元暦2年(1185年)2月19日没

鎌田兄弟の父・鎌田政清。歌川芳虎「元平治合戦源義朝白河殿夜討之図」

父の鎌田次郎政清(じろうまさきよ)は義経の父・源義朝(よしとも)に従って保元の乱で活躍するも、平治の乱で討死。親子二代で源家に仕える忠臣です。

兄の盛政は一ノ谷の合戦(元暦2・1185年2月7日)で討死、光政は屋島の合戦(同年2月19日)で討死。

『義経記』では二人の名はなく、鎌田政清の子・唱門坊(しょうもんぼう。俗名は三郎、父の菩提を弔うため出家)が鞍馬寺にいた牛若丸(義経)に出生の秘密を伝える役目を果たしています。

各作品のつながりは確かではありません。しかし盛政が藤太(藤原氏の長男)、光政が藤次(同じく次男)なので、『義経記』の唱門坊(三郎)が末弟なのかも知れませんね。

佐藤三郎継信&佐藤四郎忠信

佐藤継信:保元3年(1158年)生~元暦2年(1185年)2月19日没

佐藤忠信:応保元年(1161年)生~文治2年(1186年)9月22日没

平教経に射られ、義経をかばって討死する継信。楊洲周延筆

元は奥州の藤原秀衡(演:田中泯)に仕えており、義経の旅立ちに際して同行するよう命じられました。

兄の継信は屋島の合戦で討死、弟の忠信は平家滅亡後に後白河法皇(演:西田敏行)より兵衛尉の官職を与えられます。

そのことによって源頼朝(演:大泉洋)の怒りを買い「奥州の田舎侍が兵衛尉などと、身の程をわきまえて辞退しておけ。このイタチ野郎!(意訳)」と罵倒されてしまいました。

歌川国芳「本朝英雄鏡 佐藤四郎兵衛忠信」

後に都落ちした義経を逃がすべく、囮となって追手を引きつけます。僧兵の横川覚範(よかわ かくはん)はじめ多くの者を射殺、ついには撃退しました。

義経とはぐれてしまった忠信は都の近くに潜伏。支援を求めて元恋人に文を送ったところ、その夫によって居場所を密告されてしまいます。

果たして襲撃された忠信は奮闘したものの、衆寡敵せず自害。かつて義経から賜った刀を手に、腹を切っても死ねなかったため、口に含んで喉を貫く壮絶な最期でした。

伊勢三郎義盛

生年不詳~文治2年(1186年)7月25日

伊勢三郎義盛。いかにも山賊上がりっぽいワイルドな風貌。歌川芳虎「英勇義経十九臣之内 伊勢三郎義盛」より

『平家物語』によると伊勢国鈴鹿山の山賊として、『平治物語』だと義経が上野国で泊まった宿の息子として登場するなど、出自には諸説あります。

『源平盛衰記』だと故郷の伊勢国で伯母の婿を殺して獄につながれ、赦免された後に各地を放浪。上野国で義経と出会ったとか。

『愚管抄』では木曽義仲(演:青木崇高)の首級を上げたとされ、『吾妻鏡』では壇ノ浦で平宗盛(演:小泉孝太郎)&平清宗(演:島田裕仁)を捕らえるなど大活躍。「一の郎党」を自称するだけはありますね。

(※ただし『吾妻鏡』『平家物語』では義仲を討ったのは石田為久とされています)

しかし義経が腰越で止められた際、頼朝の義弟(妹婿)である一条能保(いちじょう よしやす)の家人と乱闘騒ぎを起こし、義経の立場を悪くしてしまう失態も。

義経の都落ちに従うも間もなく単独行動をとり、故郷の伊勢国で守護職にあった山内首藤経俊(演:山口馬木也)を襲撃するも失敗。

古巣?の鈴鹿山へ逃げ込むも追い詰められ、梟首とされたのでした。『義経記』ではずっと義経につき従い、平泉で運命を共にしたと伝わります。

片岡太郎常春

生年不詳~文治5年(1189年)閏4月30日

片岡八郎為春(常春)。月岡芳年筆

元は下総国海上荘と常陸国鹿島郡(千葉県・茨城県境地域)を治める豪族でした。しかし養和元年(1181年)3月に謀叛の疑いをかけられ、召喚の使者を傷つけた咎によって所領を没収。

やがて赦されて義経に従い、『平家物語(延慶本)』では壇ノ浦で沈んでしまった三種の神器「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」を回収する手柄を立てます。

その後、義経の都落ちに際しては親族(兄弟?)と思われる片岡八郎弘経(はちろう ひろつね)が従っていますが、常春の行動は不明。

『義経記』では経春(常春)も都落ちに従い、平泉で義経を守って討ち死にしたと言われています。

亀井六郎重清

仁安2年(1167年)生~文治5年(1189年)閏4月30日没

亀井六郎重清。歌川国芳筆

『吾妻鏡』では文治元年(1185)5月7日に義経の起請文を届ける使者として登場。しかしせっかくの起請文も「今さら何だ」と火に油を注ぐ結果となってしまいました。

『源平盛衰記』では一ノ谷の合戦でも活躍。弓の名手として名を挙げたと言います。

重清の最期は、義経を守り抜くべく兄の鈴木三郎重家(すずき さぶろうしげいえ)と共に奮戦。義経の自害を見届けてから、兄弟揃って自害しました。

一説には佐々木源三秀義(演:康すおん)の六男で、義経の引き合わせで重家と義兄弟の契りを交わしたとも言われます。

駿河次郎清重

生没年不詳

歌川国芳「名高百勇傳 駿河次郎清繁」

『吾妻鏡』には登場しないため、架空の人物と見られています。また諱の清重は後世の創作です(亀井六郎が重清なので、ひっくり返したのでしょうか)。

元は猟師で、最初は源頼朝に仕えていたのを、治承4年(1180年)10月ごろに義経が合流すると、そちらへ鞍替え。

中間や雑色(いずれも下人身分)として登場するので、恐らくは義経の身辺を世話させるため、頼朝がつけてやったのでしょう。

『源平盛衰記』ではその後、義経に従って各地を歴戦。平家の滅亡後に捕虜となった副将丸(ふくしょうまる。宗盛の次男・平能宗、当時6歳)を斬っています。

また『義経記』だと頼朝の刺客・土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん)を撃退後、捕らえた昌俊を六条河原で斬首しました。

その後の動向は不明、義経の都落ちや平泉での最期に居合わせたのでしょうか。

常陸坊海尊

生没年不詳

常陸坊海尊(画像:Wikipedia)

元は園城寺か比叡山延暦寺の悪僧であったと言われ、弁慶らと共に義経の都落ちに同行。

『吾妻鏡』には登場せず、またあまり武勇を奮った形跡もないため架空の人物説もあります。もしかしたら、僧兵キャラである弁慶の相方として登場させたのかも知れません。

しかし海尊には重要な役目がありました。

遍照寺(栃木県真岡市)の伝承によれば、彼は義経の命を受けて逃亡中に生まれた男児(千歳丸、経若とも。後の中村朝定)を常陸入道念西(ひたちのにゅうどう ねんさい。伊達朝宗か)に託したと言います。

文治中、藤原泰衡追悼の軍功により賞与を仝地に賜り、故に奥州伊達の地に移る。これより先、常陸坊海尊なる者藤原秀衡の命を受け源義経の子、経若を懐にして中村に来り、念西に託す。念西、伊達に移るに由り常陸冠者為宗を伝とし中村家を為村に譲り、為宗我が子とし成人の後、中村を続かしむ。後、中村蔵人義宗と言ふ。又左衛門尉朝定と改む。

※遍照寺の古寺誌より

そのお陰で男児は頼朝の追及を逃れ、義経亡き(あるいは蝦夷地へ逃亡)後もその血脈は受け継がれたということです。

武蔵坊弁慶

生年不詳~文治5年(1189年)閏4月30日没

平家の亡霊を調伏する弁慶。歌川貞秀筆

義経の家来と言ったら、歴史ファンでなくてもこの人を連想することでしょう。大河ドラマでも「あなたがいるから、義経の居場所がバレてしまうのだ」とツッコミを受けていましたね。

そんな弁慶ですが、『吾妻鏡』で登場するのは義経の都落ち直後のみ。その前後は史料による裏づけがありません。

当時、比叡山の僧兵らが都周辺に潜伏していた義経を支援しており、彼らのエピソードをまとめて武蔵坊弁慶というキャラクター(※)を作り上げたのではないでしょうか。

(※)実在した弁慶はそこまで荒法師でもなく、単なる従軍祈祷僧などであったかも……という意味です。

五条大橋で牛若丸との出逢い(当時五条大橋はかかっておらず、『義経記』では堀川小路から清水観音にかけてとされる)とか逃亡中の「勧進帳」、そして義経を守り抜いての「立ち往生」など、逸話の尽きない人気者。

大河ドラマではどのような最期を遂げるのか、三谷アレンジを心して見届けたいですね。

他にもたくさん!義経と仲間たち

以上、義経の活躍を支えた義経四天王たちについて紹介してきました。

義経を守り通すため、弁慶が必死の大芝居。「歌舞伎十八番内 勧進帳」

他にも義経にはたくさんの仲間がおり、彼らについても紹介していけたらと思います。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では全員が登場しきれないでしょうが、少しでも「これは義盛かな」「あれは海尊かも」と興味を持ち、楽しむキッカケになりましたら幸いです。

※参考文献:

  • 菱沼一憲『源義経の合戦と戦略 その伝説と実像』角川書店、2005年4月
  • 山崎純醒『源義経周辺系図解説 『義経北紀行伝説』を読み解く』批評社、2016年11月
  • 古田十駕『風譚義経』文藝春秋、2001年1月

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