New! ちぐさ(菅原孝標女)の生涯をたどる

【鎌倉殿の13人】源義経を虜にした「第2の女」石橋静河演じる静御前の330日をたどる【後編】

大河ドラマ
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鎌倉へ護送され、繰り返される訊問

(前略)……今日。豫州妾靜依召自京都參着于鎌倉。北條殿所被送進也。母礒禪師伴之。則爲主計允〔行政〕沙汰。點安逹新三郎宅招入之云々。

※『吾妻鏡』文治2年(1186年)3月1日条

鎌倉でもさっそく取り調べを受けた静御前ですが、同じ供述を何度も繰り返すのは苦痛だったことでしょう。

しかも時間が経って記憶があいまいになりつつあったところへ、以前の供述と言っていることが違うなどと言いがかりをつけられるなど、実に大変だったようです。

文治二年三月小六日甲申。召靜女。以俊兼盛時等。被尋問豫州事。先日逗留吉野山之由申之。太以不被信用者。靜申云。非山中。當山僧坊也。而依聞大衆蜂起事。自其所以山臥之姿。稱可入大峯之由入山。件坊主僧送之。我又慕而至一鳥居邊之處。女人不入峯之由。彼僧相叱之間。赴京方之時。在共雜色等取財寳。逐電之後。迷行于藏王堂云々。重被尋坊主僧名。申忘却之由。凡於京都申旨。与今口状頗依違。任法可召問之旨。被仰出云々。又或入大峯云々。或來多武峯後。逐電之由風聞。彼是間定有虚事歟云々。

※『吾妻鏡』文治2年(1186年)3月6日条

3か月以上も前に、ただ一度や二度会っただけの僧侶の名を覚えているかだの、迷い込んだ地名がどうのこうの……皆さんなら、必ず正確に答える自信があるでしょうか。

3月22日にも再び訊問が行われたものの、静御前は「知らないものは知らない」の一点張り。知っているなら、一刻も早く駆けつけたかったのは他ならぬ彼女自身。

これ以上はどうしようもないので、当局は訊問を打ち切り。もし本当は知っているなら、泳がせておいた方が得策というものです。

とりあえず今は妊娠しているようなので、出産を待ってから解放せよとの沙汰が下されました。
女の子ならばよし、男の子なら……もちろん殺すためです。

文治二年三月小廿二日庚子。靜女事。雖被尋問子細。不知豫州在所之由申切畢。當時所懷妊彼子息也。産生之後可被返遣由。有沙汰云々。

※『吾妻鏡』文治2年(1186年)3月22日条

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しづやしづ しづのおだまき くり返し……

かくして鎌倉で鬱々と過ごしていた静御前に鶴岡八幡宮で舞を奉納せよとの命令が下されます。

「嫌です!晒し者にされる上、九郎殿を追い詰めた仇敵を祝う舞いなど奉納できるものですか!」

これまでさんざん病気だの身重だのを理由に断り続けてきましたが、御台所である政子(演:小池栄子)がたっての要望とのことで、仕方なく応じたのでした。

水野年方「静御前鎌倉鶴ヶ岡ニ法楽ノ図」

そして文治2年(1186年)4月8日。伴奏は工藤左衛門尉祐経(演:坪倉由幸)の鼓と、畠山次郎重忠(演:中川大志)の銅拍子。京都で活躍していた祐経はともかく、重忠は音曲にも嗜みがあったのですね。

さて、舞に先んじて静御前は和歌を吟じました。

吉野山 峯の白雪 ふみ分けて
入(いり)にし人の 跡ぞ恋ひしき

【意訳】峯の白雪を踏み分け、吉野山で別れてしまった九郎様の跡を追いたい……

鎌倉のど真ん中で、鎌倉に盾突いた謀叛人を慕う歌とはいい度胸だ……頼朝の怒りを煽るようにもう一首詠みました。

しづやしづ しづのおだまき くり返し
昔を今に なすよしもがな

【意訳】静や、静と九郎様が、糸巻きのごとく私を何度も呼んで可愛がってくれた昔に戻れたら……

静御前の一途な思いと美しく舞う姿に、塵一つでさえ動かぬものはなかったという有り様。要するにその場にいた誰もが感動に胸打たれたのですが、ただ一人頼朝だけは怒り狂います。

「いい加減にせんか!東国の末永い平和を祝うべき席で天下を乱す謀叛人を慕うとは……覚悟はできておろうな!」

今にも静御前を斬り捨てんばかりの頼朝を、政子がピシャリと制しました。

「やれ謀叛人、謀叛人と偉そうに言うけれど、あなたもたった数年前まで伊豆の流人だったでしょ?
かつて父が私とあなたの結婚に反対して私を引き離した時、嵐の闇夜をあなたの元へ駆けていったのを、私は今でも忘れません。
やがてあなたが挙兵した時は走湯山に匿われ、生き死にすら分からない中で毎日あなたの無事を祈っていた時の淋しさや悲しさを、私は昨日のように覚えています。
それを思えば、この静御前こそ貞女の鑑。もしこれが他の男に鞍替えするような女なら、どんな美しい舞も歌も賞賛には値しません。
ね、ここは一つ気前よく褒めて男を上げなさいな。ホラ!」

若き日の頼朝と政子(イメージ)

「まぁ……そなたがそう言うなら……」

ということで頼朝は怒りを収め、自分の着ていた卯華重(うのはながさね)の装束を脱いでこれを静御前への褒美としたのでした。

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エピローグ

これで「めでたし、めでたし」となれば、まぁそれなりに心も癒えるかも知れませんが、静御前はまだまだ苦難が襲います。

5月14日には工藤祐経や梶原景茂(かじわらの かげもち。梶原景時の三男)、千葉常秀(ちば つねひで。千葉常胤の孫)、八田朝重(はった ともしげ。八田朝家の長男)、藤原邦通(ふじわらの くにみち)らにセクハラを受ける騒ぎに。

また、閏7月29日には妊娠していた子供を出産したものの、果たして男児であったため由比ヶ浜に沈め殺されてしまいます。

この時ばかりはいくら政子が懇願しても、聞き入れて貰えませんでした。

政子「あなただって、かつて平相国(平清盛)に命を救われた身なのに!」

頼朝「……その救われた我れが平家に何をしたか、知らぬそなたでもなかろう」

文治二年閏七月小廿九日庚戌。靜産生男子。是豫州息男也。依被待件期。于今所被抑留歸洛也。而其父奉背關東。企謀逆逐電。其子若爲女子者。早可給母。於爲男子者。今雖在襁褓内。爭不怖畏將來哉。未熟時断命條可宜之由治定。仍今日仰安逹新三郎。令弃由比浦。先之。新三郎御使欲請取彼赤子。靜敢不出之。纏衣抱臥。叫喚及數剋之間。安逹頻譴責。礒禪師殊恐申。押取赤子与御使。此事。御臺所御愁歎。雖被宥申之不叶云々。

※『吾妻鏡』文治2年(1186年)閏7月29日条

そんな中、頼朝の長女である大姫(演:落井実結子⇒南沙良)とは仲がよかったようで、少し時は前後して5月27日に姫を慰める舞を披露しています。

病床の大姫。菊池容斎『前賢故実』より

もしかしたら、頼朝によって愛する人を奪われた同士意気投合したのかも知れませんね(大姫は、許婚の源義高を殺されました)。

そして9月16日、静御前と磯禅師は身柄を解放され、京都へ帰ることになりました。

「今まで、お世話になりました」

「どうか、お気をつけて……」

政子と大姫に見送られ、そのまま歴史の表舞台から姿を消したということです。

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終わりに

以上、『吾妻鏡』より静御前の登場から退場まで330日間(※)の足取りをたどってきました。

(※)文治元年(1185年)11月17日~文治2年(1186年)9月16日。当時は1ヶ月が30日で固定、かつ文治2年(1186年)には閏月が入るため。

勝川春章「堀川夜討之図」

義経との出逢いや、鎌倉を去った後などさまざまな伝承を残した静御前。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではどのように描かれるのか、演じる石橋静河さんがどのように魅せてくれるのか、これから楽しみですね!

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡2 平氏滅亡』吉川弘文館、2008年3月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡3 幕府と朝廷』吉川弘文館、2008年6月

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