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【鎌倉殿の13人】源義経を虜にした「第2の女」石橋静河演じる静御前の330日をたどる【前編】

大河ドラマ
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木曽義仲(演:青木崇高)に続いて一ノ谷の合戦で平家の軍勢を撃破した源義経(演:菅田将暉)は、後白河法皇(演:西田敏行)の覚えもめでたく京都洛中の治安を守る検非違使に任命されました。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、後白河法皇から差し遣わされた白拍子たちの中から、ひときわ美しい女性を見初めます。それが後に義経のパートナーとなる静御前(演:石橋静河)です。

静御前。葛飾北斎筆

義経には既に(演:三浦透子。郷御前)という正室がいましたが、それはそれ、これはこれ……すっかり虜になっていましたね。

※参考:郷御前について

二人の出逢いについて『吾妻鏡』には記録がないものの、『義経記』では雨乞いのために召し出された白拍子の中から一際美しく舞う静御前を義経が見初めたと言います。

さて、悲劇のヒロインとして知られる静御前はどのような生涯を送るのでしょうか。

今回は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』より、その足跡をたどっていきたいと思います。

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都落ちする義経に従う

静御前の初登場は文治元年(1185年)11月6日。源頼朝(演:大泉洋)に対して謀叛を起こして失敗、京都から逃げ去ったわずかな郎党たちにまじっていました。

文治元年十一月大六日乙酉。行家。義經於大物濱乘船之刻。疾風俄起而逆浪覆船之間。慮外止渡海之儀。伴類分散。相從豫州之輩纔四人。所謂伊豆右衛門尉。堀弥太郎。武藏房弁慶并妾女〔字靜〕一人也。今夜一宿于天王寺邊。自此所逐電云々。今日。可尋進件兩人之旨。被下 院宣於諸國云々。

※『吾妻鏡』文治元年(1185年)11月6日条

源行家(演:杉本哲太)と義経が大物浜へやってくると、にわかに海が時化て船が引っくり返る大騒ぎ。やむなく出航を諦めます。

行家と別れた義経は伊豆右衛門尉(いず うゑもんのじょう。義経の娘婿・源有綱)・堀弥太郎景光(ほり やたろうかげみつ)・武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)そして(しずか)という愛妾のわずか4人だけを連れてその晩は天王寺あたりに宿泊。

いつも一緒だった義経と静御前。楊洲周延筆

そこからどこへともなく逃げ去り、後白河法皇(ごしらかわほうおう)は行家・両名を探し出すよう諸国へ院宣を下したのでした。

……最初は西国へ逃げようとしていたのですが、暴風によって断念。それまで200騎はいた軍勢も散り散りとなり、残ったのはわずか5人。

この時、正室の郷御前は別ルートから逃げようとしていたのか、姿が見えません。

それともどこかに匿われていて、安全が確保できたら連れて来ようと考えていた可能性もあります。

もしそうなら、義経は道中の危険性を百も承知で、ずっと静御前と一緒にいたかったということに。よほど寵愛していたのでしょうね。

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義経と別れて餞別も奪われ……

しかし、そんな義経は間もなく静と別れてしまいます。大和国の吉野山は女人禁制、どうしても静を連れて行けなかったのです。

そこで義経は、静に「これに顔を映して、朝夕に私を思い出しなさい」と鏡を与えました。静は大切に鏡を抱きしめますが、涙ながらに悲しみを詠みます。

見るとても 嬉しくもなし 増鏡(ますかがみ)
恋しき人の 影を留めねば

【意訳】こんなものを頂いても、私は嬉しくありません。だっていくらのぞき込んでも、そこにあなたが映ることはないのだから。

※『義経記』巻第五「判官吉野山に入り給ふ事」より

永の別れを惜しむのは義経とて同じこと。悲しみを振り切るように、義経は山中深くへと入っていったのでした。

文治元年十一月大十七日丙申。豫州篭大和國吉野山之由。風聞之間。執行相催悪僧等。日來雖索山林。無其實之處。今夜亥剋。豫州妾靜自當山藤尾坂降到于藏王堂。其躰尤奇恠。衆徒等見咎之。相具向執行坊。具問子細。靜云。吾是九郎大夫判官〔今伊与守〕妾也。自大物濱豫州來此山。五ケ日逗留之處。衆徒蜂起之由依風聞。伊与守者假山臥之姿逐電訖。于時与數多金銀類於我。付雜色男等欲送京。而彼男共取財寳。弃置于深峯雪中之間。如此迷來云々。

※『吾妻鏡』文治元年(1185年)11月17日条

さて、義経が大和国の吉野山中に潜伏しているという情報が入ったため、悪僧らが捜索したもののなかなか発見できずにいました。

義経に別れを告げられ、泣き崩れる静御前。月岡芳年「芳野静判官別離図」

しかしその亥刻(いのこく。深夜10時ごろ)、静御前が山から迷い出てきます。これを捕らえた悪僧らは、さっそく連行・訊問しました。その供述によると

「私は九郎大夫判官(義経)の妾にございます。この5日間ほどみんなで山中に滞在していたところ、山狩りが行われると聞いて九郎様は山伏に扮して逃亡、私は(この先女人禁制のため)京都へ帰るよう命じられました。餞別として多額の金銀を下さったのですが、私の護衛としてつけて下さった雑色(ぞうしき)らが金銀を奪って逃亡。私は深い峰の雪中に捨てられてしまったのです」

……との事でした。義経も護衛をつけるなら信頼できる人物に任せないと、これは金銀を奪われただけでなく、間違いなく暴行も受けていることでしょう。

もちろん義経も静御前が心配でなかったはずはなく、信頼できる人をつけてあげるだけの余裕などなかったものと思われます。

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京都に護送され、北条時政の尋問を受ける

とにもかくにも身柄を保護された静御前は文治元年(1185年)12月8日、京都にいた北条時政(演:坂東彌十郎)の元へ護送され、改めて訊問を受けました。

文治元年十二月大十五日甲子。北條殿飛脚自京都參着。被注申洛中子細。謀反人家屋等先點定之。同意悪事之輩。當時露顯分。不逐電之樣廻計畧。此上又申師中納言殿畢。次豫州妾出來。相尋之處。豫州出都赴西海之曉。被相伴至大物濱。而船漂倒之間。不遂渡海。伴類皆分散。其夜者宿天王寺。豫州自此逐電。于時約曰。今一兩日於當所可相待。可遣迎者也。但過約日者速可行避云々。相待之處。送馬之間乘之。雖不知何所。經路次。有三ケ日。到吉野山。逗留彼山五ケ日。遂別離。其後更不知行方。吾凌深山雪。希有而着藏王堂之時。執行所虜置也者。申状如此。何樣可計沙汰乎云々。」……(後略)

※『吾妻鏡』文治元年(1185年)12月15日条

時政からの飛脚が鎌倉へ到着。書状によれば、まず謀叛人(行家・義経)らの家屋を接収し、また協力者なども逃がさぬよう手はずを整えたとのこと。

次に義経の愛妾・静御前を捕らえ、吉野山へ義経と別れるまでの動静を訊問した旨を詳細に報告します。

京都守護を務めていた北条時政。『武者鑑』より

「……以上ですが、この者をいかがいたしましょうか」

時政が鎌倉へ伺いを立てたところ、当局からは「静を鎌倉へ召し下せ」と指示がありました。

(前略)……又被遣北條殿御返事。靜者可被召下云々。

※『吾妻鏡』文治元年(1185年)12月16日条

明けて文治2年(1186年)1月29日、まだ静御前は京都にいたようで、重ねて鎌倉へ召し下すよう指示が出されます。

文治二年正月小廿九日戊申。豫州在所于今不聞。而猶有可被推問事。可進靜女之由。被仰北條殿云々。又此事尤可有沙汰由。付經房卿令申給云々。

※『吾妻鏡』文治2年(1186年)1月29日条

本命である義経の動向をつかむため、鎌倉も重要参考人として静御前を直接訊問したかったのでしょうが、時政はなぜ要請を受けながらすぐに護送しなかったのでしょうか。

流石に二度の要請を無視できなかったのか、時政より静御前を鎌倉へ護送する旨の返事が2月13日に届きました。

文治二年二月大十三日辛酉。當番雜色自京都參着。進北條殿状等。靜女相催可送進。……(後略)

※『吾妻鏡』文治2年(1186年)2月13日条

もしかしたら厳しい取り調べから守ろうとしていたのかも知れませんが、仕方なく時政は静御前を鎌倉へ護送。

母の磯禅師(いそのぜんじ)と共に出発して、3月1日に到着。御家人・安達新三郎清経(あだち しんざぶろうきよつね)の館で身柄を保護されるのでした。

【後編へ続く】

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡2 平氏滅亡』吉川弘文館、2008年3月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡3 幕府と朝廷』吉川弘文館、2008年6月

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