彰子の女房 宮の宣旨(みやのせんじ)
小林 きな子(こばやし・きなこ)源陟子(みなもとのただこ)。60代・醍醐天皇の孫である源伊陟(みなもとのこれただ)の娘。藤原彰子に女房として仕える。
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
『源氏物語』の評判がきっかけとなり、藤原彰子(見上愛)に仕えることとなったまひろ(紫式部。吉高由里子)。
内裏には様々な女性たちが仕えており、彰子を支えていました。
今回はそんな一人である宮の宣旨(みやのせんじ)こと源陟子(みなもとの ちょくし/ただこ)を紹介。果たして彼女はどのような人物だったのでしょうか。
宮の宣旨・源陟子の生い立ちについて
源陟子は生没年不詳、母親についてもはっきりとは分かっていません。
ただし中宮の宣旨(せんじ、せじ)という第一秘書的な重職についていることから、出自の怪しい女性が生んだ娘ではなさそうです。
その事から、源陟子は正室や側室など正式な妻との娘と考えられるでしょう。
また生年については父親の生没年から、ある程度までは割り出すことができます。
父親は天慶元年(938年)生~長徳元年(995年)5月22日没であり、長保元年(999年) に彰子の入内にともなって出仕したと考えられます。
そのため、おおむね天徳4年(960年)~天禄3年(970年)ごろの誕生と考えるのが自然でしょう。
また後に藤原定頼(さだより。藤原公任の嫡男)から言い寄られており、長徳元年(995年)生まれの定頼から見て恋愛対象となりうる年齢差を考えると、天徳4年(960年)生まれだとかなり厳しめ。
天禄3年(970年)生まれであれば定頼が20歳となった長和3年(1014年)時点で45歳。当時としては高齢者の域ですが、当人の魅力しだいではいけなくもなさそうです。
そう考えると、源陟子の生年は紫式部とそこまで変わらない天禄3年(970年)ごろだったのではないでしょうか。
源陟子の女房名について
宮の宣旨という女房名で呼ばれた源陟子ですが、これははじめから固定ではありませんでした。
文献に記された時期ごとに違う女房名が使われていることもあり、少しずつ変わっていったようです。
- 中納言のせんじのつぼね……『御堂関白集』九
- 宮の宣旨……『紫式部日記』
- 中宮宣旨……『御堂関白記』寛弘8年(1011年)10月18日
- 皇大后宮宣旨(伊陟女子)……『御堂関白記』長元元年(1012年)閏10月27日
- 大宮の宣旨……『栄花物語』寛仁3年(1019年)3月末
- 従五位上 源渉子(御乳母、大宮宣旨)……「光厳帝宸記之写」寛仁3年(1019年)8月23日
- 中納言君……『左経記』万寿3年(1026年)1月9日
- 女院の中納言のきみ……『定頼集』
ちらほら「中納言」というフレーズが出てきますが、これは父親の極官(ごくこん、きょくかん。生涯における最高官職)に由来しました。
やがて彰子が中宮となると中「宮」の宣旨と呼ばれ、一条天皇(塩野瑛久)の譲位により彰子が皇太后となると、皇大后「宮」宣旨に変わります。ちなみに源「渉子」というのは誤記。
まとめると、源陟子の女房名は中納言の宣旨→中宮の宣旨→皇大后宮宣旨(大宮の宣旨)→女院の中納言のきみ(彰子の出家後)と移り変わったのでした。
紫式部が讃えた美貌
宮の宣旨は美貌の持ち主として知られ、その様子は『紫式部日記』に描かれています。
……宣旨の君は、ささやけ人の、いとほそやかにそびえて、髪のすぢこまかにきよらにて、生ひさがりの末より一尺ばかりあまりたまへり。いと心恥づかしげに、きはもなくあてなるさましたまへり。ものよりさし歩みていでおはしたるも、わづらはしう、心づかひせらるる心地す。あてなる人はかうこそあらめと、心ざま、ものうちのたまへると、おぼゆ。
【意訳】宮の宣旨の肢体はとても細やかで、その髪はとても長く清らかに流れている。我が身を恥じらうような奥ゆかしい物腰は、艶(あで)やかなること極まりない。物陰からあゆみ出す様子は、わずらわしいまでの心遣いを感じさせる。女房たるものこうでなくてはと思わせる心ざまは、物言いにも表れていると思う。
※『紫式部日記』より
面と向かってはもちろんのこと、日記で他人を褒めるなんてまずしない紫式部が、こうまで褒めるというのは珍しいでしょう。
中宮の宣旨として恥ずかしくない美しさと才知が、彼女の持ち味だったようです。
和泉式部と和歌のやりとり
また宮の宣旨は和歌に巧みなことでも知られており、和泉式部(役名あかね。泉里香)とこんなやりとりが残っています。
脱ぎかへん ことぞ悲しき 春の色の きみがたちける 衣と思へば
※和泉式部
【意訳】藤原道長が出家して袈裟に着替え、もう春色の衣を着ない(俗世との執着を断つ)と思うと、悲しくてなりません。
たちかはる うき世のなかは 夏衣 袖に涙も とまらざりけり
※大宮の宣旨
【意訳】浮世(憂き世)の移り変わりを思うと、衣替えしたばかりの夏衣の袖が、止まらぬ涙に濡れてしまいます。
※『栄花物語』巻十五うたがひの巻より。
道長が出家して春の衣から袈裟に着替え、もう二度と春衣を着ないことについて悲しむ歌です。
藤原彰子に献上された和歌に対して、返歌の代詠(代わりに詠む役)を務めるほど厚く信頼されていたことが分かります。
藤原定頼(藤原公任嫡男)を魅了
先ほど少し言及したように、源陟子(女院の中納言の君)は母子ほども年齢差のある藤原定頼を魅了していました。
女院の中納言のきみ、つれなくのみありければ
ひるはせみよるはほたるに身をなしてなきくらしてはもえあかすかな(昼は蝉 夜は蛍に 身をなして 鳴き暮らしては燃え明かすかな)
【意訳】昼間は蝉となって恋を叫び、夜は蛍となって心を燃やして、この思いを貴女に伝えたい!(ちゃんと思いが伝われば、貴女も解ってくれるはずです)
※『定頼集』134
定頼はあちこち(小式部内侍、相模、大弐三位など)に手を出すナンパ男でしたが、なかなか情熱的な和歌ですね。
誰にでも言っているのか、それともこの浮かれ男を本気にさせるほど魅力的だったのか……。
終わりに
今回は藤原彰子に仕えた女房・宮の宣旨について紹介してきました。
ほかにも彼女は彰子が生んだ敦良親王(あつなが。のち後朱雀天皇)の乳母も勤めたといいます。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、どのような女性に描かれるのでしょうか。
小林きな子の演技に注目ですね!
※参考文献:
- 角田文衞『紫式部伝: その生涯と『源氏物語』 源氏物語千年紀記念』法藏館 、2007年1月
- 諸井彩子「宣旨女房考―摂関期を中心に―」
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