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人呼んで「頼家殿の6人」?源頼家に抜擢された若き親衛隊メンバー6人を紹介【鎌倉殿の13人】

大河ドラマ
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「わしの政(まつりごと)は、わしとこの6人で行う」

※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第27回放送「鎌倉殿と十三人」より

源頼朝(みなもとの よりとも)亡き後、宿老たちの合議制に反発して若き側近たちを結集した第2代鎌倉殿・源頼家(よりいえ)。

このエピソードは鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』にも記述があるものの、大河ドラマと若干メンバーが違います。

【大河ドラマで紹介されていた6人】

  • 小笠原弥太郎長経(演:西村成忠)
  • 比企三郎宗朝(演:Kaito)
  • 比企弥四郎時員(演:成田瑛基)
  • 中野五郎能成(演:歩夢)
  • 北条五郎時連(演:瀬戸康史。後に北条時房)
  • 江間太郎頼時(演:坂口健太郎。後に北条泰時)
頼家と若き側近たち。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより

『吾妻鏡』では時連と頼時に代わって、細野四郎(ほその しろう)と和田朝盛(わだ とももり)が入っていました。

果たしてこの6名はどのような生涯をたどるのでしょうか。今回は彼らのプロフィールを紹介したいと思います。

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小笠原長経(おがさわら ながつね)

【生没年】治承3年(1179年)5月17日~宝治元年(1247年)11月5日
【通称】弥太郎
【官位】従四位上、遠江守、信濃守、阿波守、民部大輔、弾正少輔
【出自】甲斐源氏
【両親】小笠原長清、藤原邦綱女

小笠原長経は治承3年(1179年)5月17日、甲斐源氏の一族・小笠原長清(ながきよ)と藤原邦綱女(ふじわらの くにつなのむすめ)の間に誕生しました。

初陣は11歳、文治5年(1189年)の奥州征伐に従軍、頼朝の代から仕えています。

安達景盛を討つべく闘志満々だったが……(イメージ)

正治元年(1199年)に頼家の側近として抜擢され、頼家が御家人・安達景盛(あだち かげもり)の愛妾を奪った時はこれに加担。尼御台・北条政子(ほうじょう まさこ)に叱られてしまいました。

建仁3年(1203年)に北条氏による比企一族の粛清(比企能員の変)が起こると、比企派の一員として捕らわれてしまいます。

その後、鎌倉を去って家督を弟の伴野時長(ともの ときなが)に譲りました。しかし承久3年(1221年)に勃発した承久の乱では鎌倉方の将として活躍、貞応2年(1223年)には父の跡を継いで阿波国守護に任官。

同年、承久の乱によって土佐国へ流されていた後土御門上皇(ごつちみかどじょうこう)の還御(かんぎょ。都へお帰りになること)を手伝っています。

やがて出家して小笠原入道、髙倉入道などと呼ばれ、宝治元年(1247年)に69歳で世を去ったのでした。

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比企宗朝(ひき むねとも)

父・比企能員の意を受けて、頼家を操ろうとした?(イメージ)

【生没年】生年不詳~建仁3年(1203年)9月2日
【通称】三郎、弥三郎
【別名】宗員?
【官位】不明
【出自】比企氏
【両親】比企能員、母不明

13人宿老の一人である比企能員(ひき よしかず)の子として誕生。弟の時員(後述)と共に頼家の側近として蹴鞠や狩りなどに名前が見られます。

※実名については諸説あり、決め手に欠けることから「比企三郎」と通称のみで言及されることも多いです。

建仁3年(1203年)の比企能員の変で一族もろとも討死してしまいました。

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比企時員(ひき ときかず)

比企時員(弥四郎)。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより

【生没年】生年不詳~建仁3年(1203年)9月2日
【通称】四郎、弥四郎
【別名】宗員?
【官位】豊後守
【出自】比企氏
【両親】比企能員、母不明

基本的には兄・宗朝と行動を共にしていますが、『吾妻鏡』の初登場は兄より早く文治4年(1188年)。頼家の鎧着初(よろいきぞめ。武家の男児が初めて鎧を着る儀式)に参列しています。

また、正治2年(1200年)に頼家の命で念仏僧の着ていた黒衣を没収、焼き捨てるという暴挙に及んだ記録も。

こちらも比企能員の変によって討死してしまいます。

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中野能成(なかの よしなり)

実は北条のスパイだった?中野五郎(イメージ)

【生没年】生年不詳~没年不詳(建長4・1252年~同6・1254年ごろ)
【通称】五郎
【官位】右馬允
【出自】藤原氏
【両親】藤原助弘、母不明

中野氏は信濃国の豪族で、小笠原長経と共に奥州征伐に従軍しています。甲斐・信濃の者は幼少時から弓馬に慣れ親しんでいるためか、幼くとも十分戦力になったのでしょう。

その後、建久元年(1190年)の頼朝上洛や建久6年(1195年)の東大寺再建供養に随行するなど、頼朝からの信頼が厚かったものと思われます。

頼家の側近として仕えたものの、比企能員の変で北条方に拘禁されて流罪が決まりました。

しかし『市河家文書』によると特別に本領が安堵されており、また一族(兄?)と見られる中野四郎という御家人が北条時政(ときまさ)による比企能員の暗殺に動員されています。

なので、能員は頼家の動向を北条方に送るために派遣されたスパイ?と見る説もあるようです。

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細野四郎(ほその しろう)

頼家の鷹狩りに同行(イメージ)

【生没年】生没年不詳
【通称】四郎(実名不詳)
【官位】兵衛尉
【出自】不明
【両親】不明

頼家が安達景盛の愛妾を奪った事件から合流。その後は頼家が犬を飼う時の餌当番になったり、蹴鞠や狩りに参加したりなど、これと言ったエピソードがありません。

比企能員の乱で北条方に拘束され、それ以降は消息を絶ってしまいます。殺されたなら何がしか言及があってもよさそうですが、であれば鎌倉を追放されて野垂れ死にでもしたのでしょうか。

ほとんど謎の人物で、出自や背景がわからないことから、コネやしがらみ抜きの個人として頼家に気に入られていたのかも知れません。

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和田朝盛(わだ とももり)

【生没年】生没年不詳
【通称】三郎
【官位】兵衛尉
【出自】和田氏(三浦氏)
【両親】和田常盛、母不明

細野四郎と同じく、安達景盛の愛妾略奪事件から合流。愛妾を拉致監禁した御所の一室に出入りする特権を与えられています。

頼家が鎌倉を追放された後は第3代鎌倉殿・源実朝(さねとも)に仕え、その風流心を理解する数少ない一人として寵愛されました。

しかし建暦3年(1213年)に祖父・和田義盛(よしもり)が執権・北条義時(ほうじょう よしとき)と対立すると、和田一族と鎌倉殿の板挟みになってしまいます。

「おのれ北条、討たいでか!」血気盛んな和田一族。歌川芳員筆

どっちとも争いたくない朝盛は出家して鎌倉を脱出したものの、和田一族に連れ戻されて仕方なく戦うことに(和田合戦)。

『吾妻鏡』では和田合戦の戦死者として名簿に入っていたものの、同じ『吾妻鏡』ではその後も登場。伝承によれば房総半島へ潜伏していたとか。

承久3年(1221年)に勃発した承久の乱では実朝亡き鎌倉幕府を見限って朝廷方に与しますが、敗れて再び逃亡しました。

およそ6年間の潜伏生活を経て嘉禄3年(1227年)、生け捕りにされた記録を最後に、歴史の表舞台から姿を消したということです。

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終わりに

……小笠原弥太郎。比企三郎。同弥四郎。中野五郎等從類者。於鎌倉中。縱雖致狼藉。甲乙人敢不可令敵對。若於有違犯聞之輩者。爲罪科。慥可尋注進交名之旨。可觸廻村里之由。且彼五人之外。非別仰者。諸人輙不可參昇御前之由云々。

【意訳】小笠原弥太郎と比企三郎、比企弥四郎、中野五郎とその仲間につき、鎌倉市中においてどんなことをしようと彼らを咎めてはならない。逆らった者は罪に問う旨を各所へ知らせよ。またこの5人(※)以外は許可なく頼家と面会してはならない……などと命じた。

(※)ここで名前が挙がっているのは4人だけですが、もう一人(細野四郎か和田朝盛?あるいは他の誰か)がいたのか、あるいは命じる際に四人と五人を間違えたのでしょうか。

※『吾妻鏡』建久10年(1199年、正治元年)4月20日条

……以上「頼家殿の6人」について紹介してきました。大河ドラマでは比企にも北条にも距離をとっていた頼家ですが、実際には乳父である比企能員の影響を強く受けており、対抗措置として北条方は中野五郎をスパイとして送り込んでいたのかも知れません。

(※『吾妻鏡』には北条泰時が頼家に諫言する際、仲介役として中野五郎に声をかけている場面があります)

戦火に散る者、行方をくらます者、天寿をまっとうする者……こうした御家人たちの奉公によって鎌倉殿が支えられていることを知ると、鎌倉時代にもより一層興味が湧いてくるのではないでしょうか。

※参考文献:

  • 石井進『日本の歴史 7 鎌倉幕府』中公文庫、2004年11月
  • 奥富敬之『歴史文化ライブラリー 吾妻鏡の謎』吉川弘文館、2009年7月
  • 高橋英樹『三浦一族の研究』吉川弘文館、2016年5月
  • 田中大喜 編『図説 鎌倉幕府』戎光祥出版、2021年6月

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