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【光る君へ】藤原実資が「かぐや姫」と呼んで溺愛した藤原千古とはどんな女性だったのか?

平安時代
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藤原実資と言えば公平無私・四角四面なカタブツとして知られ、かの天下人・藤原道長でさえ警戒……もとい一目置いて扱う存在でした。

しかしそんなカタブツな実資も娘には弱かったようで、たいそう溺愛した様子が伝わっています。

今回は実資から溺愛された娘・藤原千古(ちふる/かずこ?)を紹介。果たして彼女はどんな女性で、どんな生涯をたどったのでしょうか。

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かぐや姫の誕生

竹から生まれた……訳ではない(イメージ)

藤原千古は生年不詳、母親についてもよくわかっていません。

千古という名前には、千歳を経(ふ)るほど永く生きて欲しいという願いが込められています。

万寿元年(1025年)12月13日に着裳(もぎ/ちゃくも。女性の成人儀式)を行っているため、寛弘8~10年(1011~1013年)ごろの生まれと考えるのが自然です。

その時期に存命だったと考えられる実資の妻は、義弟にあたる源頼定(よりさだ)の乳姉妹(乳母の娘)。

よって千古の母親は源頼定乳姉妹(よりさだのめのこ)と考えられます。もちろん記録に残っていない他の女性である可能性も考えられるでしょう。

父親の実資が天徳元年(957年)生まれなので、千古との年齢差は50歳以上。ほとんど祖父と孫娘ですね。

よく歳をとってからの子供は可愛いと言いますが、実資は千古にかぐや姫とあだ名をつけたのでした。

自身を竹取の翁になぞらえたのかも知れませんね。楽しそうで何よりです。

遺産はほとんど千古に!異論は認めない!

菊池容斎『前賢故実』より、藤原実資。

実資がどのくらい千古を溺愛したかと言えば、例えば自分の遺産をほとんど彼女に譲ると言い出すくらいでした。

千古がまだ10歳にもならない寛仁3年(1020年)12月9日に、実資は処分状(財産分与に関する遺言書)を作成します。

小野宮家(おののみやけ。藤原氏の一家流)に伝わる荘園や家財などはほぼすべて千古に相続させ、跡継ぎの藤原資平(すけひら。甥で養子)らには財産を与えない徹底ぶりです。

「道俗子等一切不可口入(どうぞくのこら、いっさいくちいれすべからず)」

【意訳】出家した者もそうでない者も、この決定に異論は認めない!

ただし公文書や日記類については千古が産んだ男児に受け継がせることにしました。

これらの記録は男性が官職において活用するものだったからです。

公文書は権利関係の証拠や書式のマニュアル、日記は儀礼の作法など、先例を重んじる貴族社会において重要なアイテムでした。

ともあれ実資が持てるすべてを与えたいほど、千古は可愛がられたのです。

入内に失敗、天に還ったかぐや姫

月へ還るかぐや姫。月岡芳年「都畿の百姿(月百姿)月宮迎 竹とり」

そこまで千古を可愛がった実資ですが、平安貴族として娘を入内させることは、とうぜん視野に入れています。

妙齢になった千古の入内運動を展開した実資ですが、藤原道長・頼通父子がこれを認めるはずはありません。

実資の台頭を阻止するために全力を尽くした結果、入内の話は立ち消えてしまいます。

こうして嫁ぎ損ねてしまった千古。少しは気の毒に思ったのか、道長の子である藤原長家との縁談が浮上しました。

道長はこれを了承したものの、長家が断ったため破談になってしまいます。

後に道長の孫である藤原兼頼(かねより)と結婚。(1036年)に一人娘(小野宮尼公)を生みました。

しかし長暦2年(1038年)ごろに千古が亡くなると、彼女の莫大な遺産は夫である兼頼を通じて道長一族(御堂流)に流れてしまいます。

先立たれた実資にしてみれば、莫大な財産よりもかぐや姫を喪った悲しみの方が、よほど大きかったことでしょう。

にわかに経済的基盤を失った実資一族(小野宮流)は、次第に没落していくこととなります。

日記類などについては、実資の子孫が受け継げました。よかったですね。

終わりに

今回は藤原実資が「かぐや姫」と呼んで溺愛した愛娘・藤原千古の生涯をたどってきました。

果たして彼女はNHK大河ドラマ「光る君へ」には登場するのでしょうか。

もし登場するとしたら、誰がキャスティングされてどんな女性に演じられるのか、とても楽しみですね!

※参考文献:

  • 金子幸子ら編『日本女性史大辞典』吉川弘文館、2008年1月

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