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【鎌倉殿の13人】政子の嫉妬に苛まれ…源頼朝「第4の女」大進局と隠し子のエピソード

平安時代
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先妻の八重姫(演:新垣結衣)、正妻の政子(演:小池栄子)、そして愛妾の(演:江口のりこ)……次々と手を出す源頼朝(演:大泉洋)の好色ぶりに、北条義時(演:小栗旬)はじめ御家人たちは振り回されます。

何より恐ろしいのは政子の嫉妬。一度は激怒のあまり、亀の住んでいた館を破壊させるという暴挙に。この「亀の前事件」は、頼朝を震え上がらせました。

しかしそれでも懲りないのが、しょうもない浮気男のサガと言うもの。頼朝はこっそり「第4の女」と密通し、隠し子までもうけてやがったのです。

果たして、どのような末路をたどるのでしょうか……。

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政子に嫌われ、出産祝いはすべて中止に

頼朝「第4の女」……彼女は大進局(だいしんのつぼね/だいじょうのつぼね)と呼ばれ、常陸介藤時長(ひたちのすけ とうのときなが。後に出家して常陸入道念西)の娘でした。

大進とは官職における四等官(かみ、すけ、じょう、さかん)の第三等で、中宮職(ちゅうぐうしき)・春宮坊(とうぐうぼう)・修理職(しゅりしき)・京職(きょうしき)・大膳職(だいぜんしき)などに配されます。

女性の通称は出身地や(父・夫の)官職からつけられることが多いですが、彼女の場合は父や夫?(頼朝)がそれらの官職にありませんから、かつて自身がそこへ出仕していた経験から呼ばれたのかも知れません。

頼朝に口説かれる大進局(イメージ)

ともあれ彼女はかねて頼朝に寵愛され、政子の監視をかいくぐるように密会を重ねた結果、男児を産んだのでした。

文治二年二月大廿六日甲戌。二品若公誕生。御母常陸介藤時長女也。御産所者。長門江七景遠濱宅也。件女房祗候殿中之間。日來有御密通。依縡露顯。御臺所御厭思甚。仍御産間儀毎事省略云々。

※『吾妻鏡』文治2年(1186年)2月26日条

【意訳】頼朝に男の子が生まれた。母は常陸介藤時長の娘で、出産は長門江七景遠(ながと えのしちかげとお)の家で行った。
彼女は鎌倉御所へ勤めていたのを頼朝に見初められたが、今回の出産で政子にバレてしまった。
政子の怒りがあまりに凄いため、やむなく出産祝いの儀式はすべて中止されたのだとか。

……その後も政子の怒りが収まらないため、頼朝は大進局に「男児を連れて上洛せよ(鎌倉より離れよ)。生活費に困らないよう、京より近い伊勢国に所領を与えるから」と便宜を図ります。

建久二年正月大廿三日壬申。女房大進局浴恩澤。是伊達常陸入道念西息女。幕下御寵也。奉生若公之後。縡露顯。御臺所殊怨思給之間。可令在京之由。内々被仰含。仍就近國便宜。被宛伊勢國歟云々。

※『吾妻鏡』建久2年(1191年)1月23日条

※この時点で、父が伊達郡の所領を給わり、出家して念西を号しているのがわかります。

大進局はこれを快諾したでしょうが、実際に出発したのはその翌年。生まれた男児は7歳になっていました。

いよいよ旅立ち

建久三年四月大十一日壬子。若公〔七歳。御母常陸入道姉〕乳母事。今日。被仰野三刑部丞成綱。法橋昌寛。大和守重弘等。而面々固辞之間。被仰長門江太景國畢。仍來月潜奉相具。可上洛之由。被定云々。他人辞退者。御臺所御嫉妬甚之間。怖畏彼御氣色之故也云々。

※『吾妻鏡』建久3年(1192年)4月11日条

※ここでは大進局が常陸入道の姉となっていますが、娘の誤記と思われます。

頼朝「……上洛に先立って、我が子の乳母父(めのと。養育係)を決めたい」

白羽の矢が立ったのは、野三刑部丞成綱(のさ ぎょうぶのじょうなりつな。小野成綱)・一品房昌寛(いっぽんぼう しょうかん)・山田大和守重弘(やまだ やまとのかみしげひろ)の3名。

しかし、3名とも「御台所様に睨まれてはかないません」などと辞退。よほど政子が怖かったのでしょうね。

『武者鑑』より、北条政子(平政子)。

そこで仕方なく、産屋を貸してくれた景遠の子である長門江太景国(ながと えのたかげくに)が乳母父に命じられました。

建久三年五月小十九日庚寅。若公令上洛給。是爲仁和寺隆曉法眼弟子爲入室也。長門江太景國。并江内能範。土屋弥三郎。大野藤八。由井七郎等扈從。雜色國守。御厨舎人宗重等被差進之。自常陸平四郎由井宅進發給。去夜幕下潜渡御于其所。奉御劔給云々。

※『吾妻鏡』建久3年(1192年)5月19日条

頼朝「……達者でな。母上に孝養を尽くすのじゃぞ」

建久3年(1192年)5月19日。男児は乳母父の景国をはじめ、江内能範(えない よしのり)・土屋弥三郎宗光(つちや やさぶろうむねみつ)・大野藤八(おおの とうはち)・油井七郎家常(ゆい しちろういえつね)らと共に上洛して行きました。

それだけでは心配なのか、身の回りの世話をさせるため雑色(ぞうしき。下人)の国守(くにもり)と、御厨舎人(みくりやどねり。ここでは料理人)の宗重(むねしげ)をつけてやります。

また昨晩、名残を惜しむために男児と大進局の住んでいた常陸平四郎(ひたち へいしろう。念西の親族?)の家をお忍びで訪ね、餞別&お守りに太刀を与えたのでした。よほどこの子が可愛かったのでしょうね。

世俗を離れ仏道に邁進、政子と和解

果たして上洛した男児は仁和寺(現:京都市右京区)で法眼隆暁(ほうげん りゅうぎょう)に弟子入り。出家して能寛(のうかん)の法名を授かります。

能の字は頼朝の妹婿(義弟)であり、仁和寺を紹介した一条能保(いちじょう よしやす)からとったのでしょう。

世俗を離れた能寛は修行三昧の歳月を送り、高い徳を積んで貞暁(じょうぎょう/ていぎょう)と改名。高野山金剛峯寺(現:和歌山県高野町)へ登ります。

それから歳月が流れ、頼朝の一族は権力争いの犠牲となって次々と暗殺されて行きました。しかし貞暁は独り超然として仏道修業に邁進、人々の尊崇を集めたのでした。

夫や息子たちの菩提を弔う政子。菊池容斎『前賢故実』より

ひたむきに仏道の悟りを求める貞暁の姿に心打たれたのか、それとも鎌倉での権力抗争に疲れていたのか(あるいは両方か)、ついに政子も心を開いて貞暁に帰依。斃れていった夫や我が子ら、源氏縁者の菩提を弔うよう支援したということです。

政子の支援によって貞暁は高野山に丈六堂(阿弥陀堂)を建立。頼朝の遺髪を本尊胎内に納めたほか、建保7年(1219年)に暗殺された異母弟・源実朝(さねとも)の追善供養を行っています。

そして寛喜3年(1231年)2月22日、貞暁は46歳で病没。これでも頼朝の子供たちの中では最も長命となったのでした。

エピローグ

一方の大進局は、我が子と別れて間もなく出家。摂津国(現:大阪府北西部)で法印行寛(ほういん ぎょうかん。源行家の子で頼朝の従弟)の世話になりました。

出家した大進局(イメージ)

後に我が子の死を聞いて嘆き悲しんだことが『明月記』に記されており、それより長く生きたことは分かります(没年は不詳)。

政子に睨まれ鎌倉を追われ、我が子と別れて先立たれ……なかなか厳しい人生ですが、せめて頼朝と親子三人水入らずの日々が幸せであったことを願うばかりです。

流石にNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」への登場はないでしょうが、裏でこういうドラマもあったことを、より多くの方に知っていただけたらと思います。

※参考文献:

  • 角田文衛『平家後抄 落日後の平家 上』講談社学術文庫、2000年6月

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