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花山天皇が突然の出家。藤原氏のクーデター寛和の変とは【光る君へ】

平安時代
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永観2年(984年)に第65代天皇陛下として即位された花山天皇(師貞親王)。

即位当時17歳という若さで積極的な政治改革に取り組み、それは後に花山新制と呼ばれます。

しかし即位からわずか2年で出家、懐仁親王(一条天皇)へ譲位してしまうのでした。

その裏には右大臣・藤原兼家の謀略があったのです。

……という訳で、今回は花山天皇の出家エピソードを紹介したいと思います。

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気づいた時には後の祭り「朕(われ)をばはかるなりけり」

御所を抜け出す花山天皇と藤原道兼。月岡芳年筆

……寛和二年丙戌六月廿三日の夜、あさましく候ひし事は、人にも知られさせ給はで、ひそかに花山寺におはしまして、御出家入道せさせ給へりしこそ、御年十九。世を保たせ給ふ事二年。その後廿二年はおはしましき。……

※『大鏡』六十五代 花山院天皇

【意訳】時は寛和2年(986年)6月23日の夜。花山天皇は誰にも知らせず御所を抜け出し、花山寺で出家してしまいました。この時19歳。天皇陛下としてご在位2年、その後22年にわたりご存命あそばされたのでした。

……花山天皇は前年に最愛の藤原忯子(しし/よしこ)を亡くし、悲嘆に暮れていたといいます。

早く花山天皇を退位させ、懐仁親王に皇位を譲らせたかった兼家は、息子の藤原道兼を遣わし、陛下をそそのかしました。

「陛下のお悲しみ、拝察するに余りあります」

「そなたは、朕の哀しみを解ってくれるのじゃな」

「はい。そこで陛下。臣と共に出家いたしませぬか」

「出家とな」

「共に仏道へ帰依し、それぞれ愛する者の菩提を弔いましょうぞ」

「……相分かった。朕もそなたと一緒ならば心強い」

という訳で、二人は月の夜に御所を抜け出したのでした。

しかし出発に際して「月が明るいから、抜け出す姿を見られては恥ずかしい(顕證にこそありけれ。いかゞあるべからむ)」とためらったり、「弘徽殿の女御(藤原忯子)からもらった手紙を見られたら恥ずかしいから、一度取りに戻りたい」とためらったり。

ここで戻られたら、企みが露見してしまいます。と言うのも、実は兼家が源満仲に命じて武士たちを動員し、御所の門を固めさせていたのでした。

つまり花山天皇は、完全に締め出されていたのです。

しかしそれに勘づかれないよう、道兼は花山天皇の説得に必死でした。

「陛下。出家というのは俗世の関わりを完全に断ち切ることにございます。されば『姿を見られて恥ずかしい』とか『妻の手紙がどうの』などと言っている場合ではございませぬ。さぁさぁお急ぎ下され……」

兎にも角にも、二人は一路花山寺へ。そしてついに、花山天皇は出家を遂げたのです。

「さぁ、次はそなたの番じゃぞ」

花山天皇あらため花山法皇(法皇は出家された天皇陛下・上皇陛下)が道兼に言うと、あろう事か道兼は、こんなことを言い放ちます。

「あぁ、やはり臣は出家の前に、父上へご挨拶しとうございます。しからば御免!」

この瞬間、花山法皇は謀られたことを悟るも後の祭り。

「何だと、そなたさっきは偉そうに『出家とは俗世のすべてを断ち切ること』だのと申しておったではないか!」

「わはは、ごめんなさ〜い!」

慌てて逃げ帰った道兼。一人寺に残された花山法皇は、ただ泣くよりなかったそうです。

終わりに

「……計画通り」花山天皇の出家に、ほくそ笑む藤原兼家(イメージ)菊池容斎筆

……花山寺におはしましつきて、御ぐしおろさせ給ひて後にぞ、粟田殿は「まかりいでゝ、大臣(おとど)にもかはらぬ姿今一度見え、かくと案内も申して、必ず参り侍らむ」と申し給ひければ、花山「朕(われ)をばはかるなりけり」とてこそ泣かせ給ひけれ。哀に悲しきことなりな。日頃よく御弟子にて候はむと契りて、すかし申し給ひけむがおそろしさよ。……

※『大鏡』六十五代 花山院天皇

かくしてまんまと出家≒譲位させられた花山天皇。「花山」の諡号(死後に奉られる称号)は、出家した寺の名前からとられています。この出家騒動は元号から後世「寛和の変」とも呼ばれました。

「わはは、してやったり!」

兼家の思惑どおり、皇太子の懐仁親王が皇位を継承。こちらが第66代・一条天皇です。

一方、出家した後も花山法皇は22年にわたって生き永らえ、寛弘5年(1008年)2月8日に41歳で崩御されたのでした。

【花山天皇・略年表】

本郷奏多演じる花山天皇。NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイト(人物紹介)より
  • 安和元年(968年)11月29日 誕生(1歳)
  • 永観2年(984年)8月27日 即位(第65代)、藤原忯子が入内(17歳)
  • 寛和元年(985年)7月18日 女御・藤原忯子が急死(18歳)
  • 寛和2年(986年)6月23日 出家(寛和の変。19歳)
  • 長徳2年(996年)1月16日 藤原伊周・藤原隆家兄弟の襲撃を受ける(長徳の変。29歳)
  • 寛弘5年(1008年)2月8日 崩御(41歳)

果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、花山天皇の出家がどのように描かれるのか、今から楽しみですね!

※参考文献:

  • 佐藤球 校註『大鏡』国立国会図書館デジタルコレクション

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