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【歴人録】清少納言の父・清原元輔とはどんな人物?大森博史が演じるその生涯は【光る君へ】

平安時代
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ききょうの父 清原 元輔(きよはらのもとすけ)
大森 博史(おおもり・ひろし)
ききょう(清少納言)の父。歌人。62代・村上天皇の撰和歌所の寄人(よりうど/職員)となり、『万葉集』の読解や『後撰和歌集』を編纂(へんさん)を行った。

※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイト(人物紹介)より

清少納言(役名ききょう)の父として知られる清原元輔。近ごろでは娘の方が有名となっており、何だかおまけじみた認識をされることもありますが、元輔は生前から名高い歌人でした。

そこで今回は、清原元輔の生涯をたどり、NHK大河ドラマ「光る君へ」の予習に役立ててもらえたらと思います。

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和歌の才能は認められたが……遅咲きの苦労人

「宣房本三十六歌仙絵 清原元輔」

清原元輔は延喜8年(908年)、清原春光(はるみつ)と高向利生女(たかむこの とししげのむすめ)の間に誕生しました。

『三十六人歌仙伝』によれば元輔が官途についたのは44歳となった天暦5年(951年)、河内権少掾(かわちのごんのしょうじょう)として遥任します。

河内権少掾とは、河内国(現代の大阪府南東部)を統治する国司の三等官(じょう。大掾と少掾がある)です。

権とは仮の意味があることから定員外の名誉職であり、実際に現地へは赴任しないことも多くありました。だから遥任(はるか遠くから任に当たる)と言います。

当時の44歳と言えば中年というよりもはや初老の域に達しており、元輔は貴族として遅咲きの部類でした(もちろん、そこまでたどり着けずに一生を終える者の方が圧倒的なのですが……)。

ただし和歌の才能は高く評価されており、村上天皇によって和歌所の寄人に選抜され、『万葉集』の読解や『後撰和歌集』の編纂など重要な役目を担いました。この時、元輔たちは昭陽舎(梨壺)に務めていたため「梨壺の五人」と呼ばれます。

【梨壺の五人】
※50音順
・大中臣能宣(おおなかとみの よしのぶ。大中臣頼基の子)
・紀時文(きの ときぶみ。紀貫之の子)
・清原元輔
・坂上望城(さかのうえの もちき。坂上是則の子)
・源順(みなもとの したごう。嵯峨天皇の玄孫)

とは言え、暮らし向きは決して楽ではなかったらしく、寛和2年(986年)には肥後守(ひごのかみ。国司の一等官)として現地へ赴かざるを得ませんでした。

この時、元輔は79歳という高齢。官途はかばかしからぬ息子たちや一族を支えるため、老骨に鞭打った様子が目に浮かぶようです。

そして永祚2年(990年)6月に83歳で世を去った(卒去した)のでした。

清原元輔・略年表

清少納言。菊池容斎『前賢故実』
延喜8年(908年)誕生(1歳)
天慶8年(945年)ごろ息子の清原為成が誕生(38歳ごろ)
天暦5年(951年)1月、河内権少掾(44歳)
応和元年(961年)3月、少監物(54歳)
応和2年(962年)1月、中監物(55歳)
康保3年(966年)1月、大蔵少丞(59歳)
※この頃、清少納言が誕生か。
康保4年(967年)10月、民部少丞/12月、民部大丞(60歳)
安和2年(969年)9月21日、従五位下/10月、河内権守(62歳)
天延2年(974年)1月、周防守/8月、鋳銭長官を兼任(67歳)
※清少納言も現地(周防国)へ同行、4年間を過ごす。
天元3年(980年)3月19日、従五位上(73歳)
天元4年(981年)ごろ清少納言が橘則光と結婚。
寛和2年(986年)1月、肥後守(79歳)
永祚2年(990年)6月、現地で卒去(83歳)

清原元輔・基本データ

狩野安信「三十六歌仙額 清原元輔」
誕 生延喜8年(908年)
死 没永祚2年(990年)
両 親父親:清原春光/母親:高向利生女
※ただし父親を清原深養父(ふかやぶ)とする説も。
主 君村上天皇⇒冷泉天皇⇒円融天皇⇒花山天皇⇒一条天皇
兄 弟弟:清原元真
妻 妾周防命婦(すおうのみょうぶ。周防守在任時の現地妻)
子 女清原為成、清原致信、戒秀(僧侶)、清原正高、清少納言、女子(藤原理能室)
※いずれも母親は不詳。
官 位肥後守/従五位上
備 考三十六歌仙の一人

終わりに

ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 浪こさじとは
※「小倉百人一首」第42番

【意訳】
涙に濡れた互いの袖をしぼりながら、約束したのをお忘れですか。
「末の松山に波が来ることがないよう、決して心変わりしない」と……。
大森博史演じる清原元輔。NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイト(人物紹介)より

以上、清原元輔の生涯などをたどってきました。NHK大河ドラマ「光る君へ」に第6回放送から登場するということは、ほぼ最晩年。今さら何をさせるのかと言いますと……(あくまで予想ですが)。

『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』によれば、元輔が賀茂祭で奉幣使を務めた際、落馬して冠が脱げてしまったエピソードをやりたいのかも知れません。

冠が脱げて丸出しになったハゲ頭。人々が笑い転げる中、元輔が懸命に言い訳を並べるのでより一層面白おかしく……という筋書きですが、ちょっとかわいそうですね。

そんな元輔ですが、死後は遺徳を慕う人々から神様として祀られ、現代も北岡神社(熊本市西区)の境内・清原神社に鎮座しています。

まさか、ただ出てきて笑い者にされるだけ、なんてことはないと信じたいですが……大森博史の熱演に期待しましょう!

※参考文献:

  • 岸上慎二『人物叢書 清少納言』吉川弘文館、1962年1月
  • 五味文彦『『枕草子』の歴史学 春は曙の謎を解く』朝日新聞出版、2014年4月

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