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【光る君へ】京都の治安を守っていた検非違使(けびいし)の歴史を調べてみました!

南北朝・室町時代
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「検非違使(けびいし)だ、ズラかれ!」

京都の治安を守っていた検非違使。この言葉を聞くだけで、平安時代の空気が感じられますね。

非違(ひい。例に非ざり、法にたがうこと)を検(あらた)むるの使い。その使命を四文字に込めた、物々しい響きがたまりません。

子供のころ、ケビイシと聞いて「ケビー氏(誰だよ)、がんばれ!」と勘違いしていたのはよい?思い出です。

さて、平安時代を物語る上で欠かせない検非違使は、どのような存在だったのでしょうか。今回は検非違使の歴史を紹介したいと思います。

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平安時代初期から末期にかけて発達した検非違使

検非違使たち。『伴大納言絵詞』より

史料における検非違使の初見は平安時代初期の弘仁7年(816年)であり、この頃に設置されたのではないかと考えられています。

当時は桓武天皇が朝廷の軍団(いわば国軍)を廃止、軍事力を放棄した状態でした。

それに乗じて凶悪犯罪が横行したため、警察・軍事組織として設置されたのです。

「非違を検める天皇陛下の使い」彼らは検非違使庁に勤務し、京都の治安維持や民政を管轄しました。

言ってみればトラブルや面倒ごとを解決する警察官が、そのまま住民のお悩み相談も受け付けるイメージでしょうか。

検非違使の発足当初は御所の門を護衛する衛門府(ゑもんふ)によって兼務されていましたが、やがて組織的に独立します。

寛平7年(895年)には左右の衛門府内にそれぞれ検非違使庁が設置されました。この時点ではまだ敷地を間借りしていたようです。

それが天暦元年(947年)に業務の迅速化・効率化を図るため、左衛門府内のみに統合されました(左の方が上位だから)。

検非違使は次第に勢力を拡大。司法を担当していた刑部省(ぎょうぶしょう)、警察権をもった弾正台(だんじょうだい)、そして京都の治安や民政を統括していた京職(きょうしき。左京大夫など)を呑み込んでいきます。

また、最初は京都だけでしたが、次第に地方各国(律令国)にも検非違使庁が設置されていきました。現代で言えば、警視庁と道府県警察のような感じですね。

検非違使の絶頂と衰退

任務に当たる検非違使たち(イメージ)

平安時代後期になると、刑事事件をとり裁くため、律令とは異なる庁例(ちょうれい。検非違使庁の先例、慣習法)を独自に持ち込みました。

ルールの制定権まで掌握するとは、もはや検非違使庁は半ば独立したようなもの。時には皇族すら震え上がったと言われる検非違使ですが、平安時代末期に入ると斜陽を迎えることになります。

平安時代末期から鎌倉時代の初期にかけて、朝廷の軍事組織「北面武士(ほくめんのぶし)」が台頭。これにより、検非違使は次第に権限や勢力を奪われ始めました。

朝廷としては、制御できなくなりつつあった検非違使を見限ったのでしょう。

さらに鎌倉幕府が京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置するとさらに勢力を削られ、室町幕府の成立によって武家政権が京都に移ると侍所(さむらいどころ)に駆逐されていきます。

そして南北朝時代の至徳年間(1384~1387年)を最後に、検非違使の活動が途絶えたということです。

検非違使の役職(官職)

検非違使たち。『法然上人絵伝』より

以上、平安時代初期から南北朝時代にかけて、約500年間にわたる検非違使の歴史をたどってきました。

最後に検非違使の役職をざっくり見てみましょう。

検非違使別当(べっとう)

一等官(かみ。長官)に相当。大理卿(だいりきょう)というカッコいい唐名があります。トップなので定員は1名。

検非違使佐(すけ)

二等官(すけ。次官)に相当。こちらも廷尉(ていい)というカッコいい唐名がありました。別当を左右から補佐するため、定員は2名。

検非違使大尉(だいじょう)

三等官(じょう。判官)に相当。こちらは明法家(みょうほうか。法律学者)である坂上(さかのうえ)氏と中原(なかはら)氏が世襲したそうです。定員は4名。

検非違使少尉(しょうじょう)

同じく三等官に相当。定員は不定。武士の名誉職ともなっており、源義経が任じられたことから九郎判官(くろうほうがん)と呼ばれたのは有名ですね。

検非違使大志(だいさかん)・検非違使少志(しょうさかん)

四等官(さかん。主典)に相当。定員は不定で、若い明法家がつくことが多かったとされるため、恐らく将来の幹部候補生的な立ち位置だったのでしょう。

府生(ふしょう)

等外の下級書記官。犯人の追捕や裁判にも参加しました。定員は時期によって2名から4名。

看督長(かどのおさ)

監獄の看守。後に犯人の追捕が任務となります。赤い狩衣(かりぎぬ)に白衣(びゃくえ)、布袴に白杖を捧げ持つ異形の姿で任務に当たったそうです。

案主(あんじゅ)

検非違使庁の事務官。当初は定員1名でしたが、多忙のためか後に増員されたと言います。

火長(かちょう)

衛門府の衛士(えじ)から選抜された兵士で、定員は不詳(数十~数百名?)。この中から看督長や案主が抜擢されました。

放免(ほうめん)

文字通り、放免された元罪人が犯罪経験を活かして検非違使の任務に協力します。別名は下部(しもべ)とも。犯人の捜索や捕縛、拷問など汚れ仕事を担当しました。定員は不定。

終わりに

以上、検非違使の歴史と官職について紹介してきました。

NHK大河ドラマ「光る君へ」にもしばしば登場し、物語を陰惨に彩る検非違使たち。これからも、彼らの活躍を楽しみにしています!

※参考文献:

  • 和田英松ら『新訂 官職要解』講談社、1983年11月

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