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源義経の子が生きていた?中村朝定の生い立ちと受け継がれる英雄の血

伝承民俗
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天性の軍略をもって源平合戦を制しながら、天性の才能と平家討伐の功績、そして源氏の血統に驕って味方から孤立。

ついには謀叛人として追われ、凄惨な末路をたどった悲劇の英雄・源義経(みなもとの よしつね)

その家族もことごとく殺され、その血脈は絶えたと言われています。

しかし実は義経やその一族が生き延びていたとする伝承も少なくありません。

白旗神社(神奈川県藤沢市)に鎮座する源義経像。今でも多くの人々に慕われている。筆者撮影

今回はそんな一人・中村朝定(なかむら ともさだ)を紹介。一説に義経の遺児とも言われる彼は、どのように生き延びたのでしょうか。

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『吾妻鏡』に記されない息子の生死

中村朝定は文治年間の生まれ、幼名は伝承によって千歳丸(ちとせまる)や経若(つねわか)、あるいはその両方(義経の死後、改名した?)などと諸説あると言います。

義経の自害が文治5年(1189年)、千歳丸も一緒に死んだとする史料『続群書類従(清和源氏系図)』では3歳とありますから、その生年は文治3年(1187年)に。

この年2月10日に義経は奥州入り、この時点で妻と子供2名(姉弟)を連れていたとあります。

なので生まれたのは1月1日~2月9日、産後間もない妻はさぞやフラフラだったことでしょう。

文治三年二月小十日壬午。前伊豫守義顯日來隱住所々。度々遁追捕使之害訖。遂經伊勢美濃等國。赴奥州。是依恃陸奥守秀衡入道權勢也。相具妻室男女。皆假姿於山臥并兒童等云々。

【意訳】文治3年(1187年)2月10日、追手から逃れた義経が藤原秀衡を頼り、妻と息子と娘を連れて奥州へ入った。それぞれ山伏や稚児に変装したのだとか。

義経を庇護してくれた藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)は、幼い男児を信頼できる有力者・常陸入道念西(ひたちにゅうどう ねんさい。伊達朝宗)に預けるよう義経に助言しました。

義経を我が子のように可愛がった藤原秀衡。Wikipediaより

「万が一、そなたに何かあった時のために、ご子息は預けておいたがよかろう」

「は。然らば……」

と言う訳で、義経は幼い千歳丸を腹心の常陸坊海尊(ひたちぼう かいそん)に託して念西の元へ預けました。ハッキリした時期は不明ながら、義経の奥州入りから秀衡が亡くなる同年10月29日までの数か月間のどこかになります。

そして奥州入りから2年余りが過ぎた文治5年(1189年)閏4月30日、秀衡の後を継いだ藤原泰衡(やすひら)に攻められた義経は自害して果てました。

文治五年閏四月卅日已未。今日。於陸奥國。泰衡襲源豫州。是且任 勅定。且依二品仰也。与州在民部少輔基成朝臣衣河舘。泰衡從兵數百騎。馳至其所合戰。与州家人等雖相防。悉以敗績。豫州入持佛堂。先害妻〔廿二歳〕子〔女子四歳〕次自殺云々。

【意訳】文治5年(1189年)閏4月30日 朝廷の命と頼朝公の圧力に抗しきれなくなった藤原泰衡が、義経のいる衣川館を数百騎で襲撃。義経はこれを防ぎきれず、持仏堂に入って22歳の妻と4歳の娘を殺し、自害したそうな。

ここでハッキリ死んだとされているのは義経とその妻と娘だけ。

息子については生死の言及がないことが「義経の遺児生存説」のキッカケとなったのでしょう。

鎌倉幕府は黙認?受け継がれる英雄の血

かくして生き延びた千歳丸は義経の経を冠して経若と改名、念西の子である伊佐為宗(いさ ためむね)に養育されました。

やがて成長した経若は元服して中村蔵人義宗(なかむら くろうどよしむね)と改名します。

しかし鎌倉当局より「義の字が義経に通じるためよろしくない」との指導でも入ったのか、養父である朝宗より一文字を拝領して中村左衛門尉朝定(さゑもんのじょう ともさだ)と再度改名。

源義経像。朝定も似ていたのだろうか。Wikipediaより

この辺りのやりとりを見るに、鎌倉当局は彼が義経の遺児であることを百も承知ながら、でも「堂々とアピールしてくれるなよ」と思っていたのかも知れません。

蔵人の通称も「九郎」に通じるから……というのは穿ちすぎでしょうか。

文治中、藤原泰衡追討の軍功により賞与を仝地に賜り、故に奥州伊達の地に移る。これより先、常陸坊海尊なる者藤原秀衡の命を受け源義経の子、経若を懐にして中村に来り、念西に託す。念西、伊達に移るに由り常陸冠者為宗を伝とし中村家を為村に譲り、為宗我が子とし成人の後、中村を続かしむ。後、中村蔵人義宗と言ふ。又左衛門尉朝定と改む。

栃木県真岡市・遍照寺の古寺誌より

朝定は弓の名手であったらしく、子の中村縫殿助(ぬいのすけ)、孫の中村太郎(たろう)ともども鶴岡八幡宮の奉納演武に選抜されるほどの腕前だったと言います。

やがて朝定より15代子孫に闘将と恐れられた戦国武将・中村玄角(なかむら げんかく)を輩出するなど、英雄の血は時代を越えて受け継がれていくのでした。

こういう歴史のif(もしも)から立てた仮説が、新たな発見のヒントとなることもあります。非常に興味深いですね。

※参考文献:

  • 山崎純醒『源義経周辺系図解説 『義経北紀行伝説』を読み解く』批評社、2016年11月

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