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武田家の再興を目指した?江戸時代の盗賊・向崎甚内の裏切りと末路

伝承民俗
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かつて戦国最強と誰が言ったか、歴史ファンの間で高い人気を誇る甲州・武田(たけだ)の騎馬軍団。武田信玄(しんげん)の偉業を受け継ぎながら、滅亡の憂き目を見た武田勝頼(かつより)のエピソードは、今なお人々の心を惹きつけてやみません。

月岡芳年「勝頼於天目山逐討死圖」

そんな武田家の再興を志して闘い続けた者がいたとしたら……胸が熱くなること請け合いですよね!ね?

……という人々の思いを具現化したのか、戦国末期から江戸時代の初期にかけて活躍?した向崎甚内(こうさき じんない)のエピソードを、今回は紹介したいと思います。

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高坂弾正の子?孫?

向崎甚内は武田二十四将の一人・高坂弾正昌信(こうさか だんじょうまさのぶ。春日虎綱)の子(あるいは孫)として生まれ、幼名は甚太郎(じんたろう)と言ったそうです。

歌川国芳「甲陽二十四将之一個 高坂弾正忠昌信」

生年は不明ですが、弾正の長男・高坂昌澄(まさずみ。源五郎)が天文20年(1551年)生まれで(次男以降は生年不詳)、弾正が天正6年(1578年)に没しているので、弾正の息子であれば、それまでの間となります。

子供を授かる年齢が一般に25~35歳と考えた場合、永禄4年(1561年)までに生まれていることになりますが、津田敬順『遊歴雑記』によると、甚内は11歳(満10歳)の時に剣豪・宮本武蔵(みやもと むさし)に弟子入りして10年間の修行を積んだそうです。

その宮本武蔵が生まれたのは天正12年(1584年)と言いますから、たとえ甚内が弾正の亡くなる天正6年(1578年)に生まれた子だとしても、11歳になる天正16年(1588年)時点で武蔵は5歳。いくら何でも無理があるでしょう。

よって、向崎甚内が本当に高坂弾正の末裔だとしたら、子供ではなく孫だったのでしょう(父親は不明)。

甚内は天正10年(1582年)に武田家が滅亡した際、祖父の対馬(つしま。母方の祖父と思われる)に連れられて摂津国芥川(現:大阪府高槻市)へと逃げたと言います。

しかし、これでも先ほどの想定から4年ほどしか進んでおらず、甚内が11歳となった天正20年(1592年)で武蔵は9歳。これでは師弟というより友達です。

もしかしたら、この時点でまだ甚内ではまだ生まれておらず、「武田家の滅亡時に甲州から逃げ出した」のは、後に母親となる女性(弾正の息子の妾?)とその父・対馬だったのかも知れません。

甲州から逃げ出したその女性が、摂津で新しく男を作った(あるいは暴行を受けた)かして身ごもり、これを「高坂弾正の子孫」と言い聞かせながら育てたのではないでしょうか。かなり強引ですが、これなら辛うじて辻褄は合うでしょうか。

剣豪・宮本武蔵の自画像

さて、武蔵の記した『五輪書』によると武蔵が高名を現わし始めたのは13歳~16歳のころで、その文禄5年(1596年)~慶長4年(1599年)に入門したのであれば、甚内が生まれたのは遡って天正14年(1586年)~同17年(1589年)となります。

そもそも武蔵が弟子をとったかはさておき、ともあれ10年間の修行を積んだ甚内は、かなりの腕前を誇るようになりますが、次第に驕りが生じたか、辻斬りや追剥を働くようになり、見かねた武蔵に破門されてしまいました。

「まぁいいや。これだけの腕があれば食っていけるだろう」

反省しない甚内は東国へ流れて相模国(現:神奈川県)で盗賊の首領となり、後に下総国向崎(現:茨城県守谷市)にねぐらを構え、以来、元の名字「高坂」に似た「向崎(こうさき)」を称したと言います。

※それまで何と名乗っていたかは不明。恐らく向崎にいたため、後付けで「こうさか」弾正の子孫と称したのでしょう。

※また、相模国にいたことから「後北条氏に仕えていたのでは」とする説も。ちなみに、後に吉原遊郭の経営者となる庄司甚内(しょうじ じんない)、日本橋で古着商として成功する鳶沢甚内(とびさわ じんない)と合わせて江戸の「三甚内」と呼ばれ、他2名は後北条氏に仕えていたそうです。

武田家再興の軍資金調達?

【前章のまとめ】

天正14年(1586年)~同17年(1589年)ごろ 1歳

 高坂弾正の子の妾が、武田家滅亡後に逃亡先で子供を産む。父親は不明だが「高坂弾正の孫」として育てる。

慶長2年(1596年)~同5年(1599年)ごろ 11歳

 武芸者として名を上げ始めた宮本武蔵(13~16歳)に弟子入り。10年間の修行を積む。

慶長11年(1606年)~同14年(1609年)ごろ 21歳

 腕前に驕って辻斬りや追剥を働き、破門されて相模国で盗賊の首領となり、やがて下総国向崎にねぐらを構え、現在に至る。

※『遊歴雑記』『慶長見聞集』などの記述から辻褄を合わせた仮説。

「……へぇ、親分にそんな過去があったんですね」

「ちょっと話に無理がある気がしなくもありませんが、ご機嫌を損ねると後が怖いので、そういうことで信じます」

「それじゃあ、あっしも実は高坂一族の末裔で、武田家が滅んだ時にこの向崎へ身を隠したということで……」

「う、うぬらっ!」

武田家再興の軍資金を調達するため、盗賊稼業に励んだ甚内(イメージ)

武田遺臣の末裔で、宮本武蔵に弟子入りするも、腕前に驕って破門され……そんな荒唐無k……もといドラマみたいな生い立ちを信じる者がいたかどうかはともかく(恐らくは後世の創作でしょうが)、甚内は「武田家再興の軍資金を調達する」ために盗賊に身をやつしたとも言われています。

「言うてもこんなペースじゃ、何年かかるか分かったモンじゃありませんがね」

「そもそも武田家を滅ぼした織田(おだ)の天下は早々と豊臣(とよとみ)に乗っ取られ、その豊臣も徳川様に天下を譲ったも同然。いったい誰に戦さを仕掛けるんですか?」

武田の遺臣は多くがその徳川(とくがわ)様に召し抱えられたと言うし、今さら武田家を再興するとか言っても誰得(だれとく=誰も得をしない)としか…」

織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うが徳川(落首)

「う、うるさいっ!とにかく、盗賊王にワシはなるんじゃ!」

まぁそんなこったろうとは思いましたが、で、盗賊王になるにはどうすればいいかと言えば、自分を高めるのもいいのですが、もっと手っ取り早いのは「トップを引きずり落とす」これに尽きます。

そうと決まれば話は早い。向崎甚内は当時関東一円で勢力を張っていた元忍者の風魔小太郎(ふうま こたろう)らの動向を奉行所に密告。風魔一味はじめ、盗賊を根絶やしにしたことで盗賊業界のトップに成り代わったのでした。

裏切り者の末路

かくして往時の石川五右衛門(いしかわ ごゑもん)もかくやとばかりの権勢を誇った向崎甚内でしたが、「同業者を官憲に売った」ことから怨みも多く買いました。

盗賊たちのカリスマ・石川五右衛門(イメージ)

また各地で捕らわれた盗賊たちが、そう言えばハッタリが効く(あわよくば刑が減免されたり、獄中で立場がよくなったりする)と期待して「自分は向崎甚内の子分だ」「身内だ」などと供述し始めます。

よく言えば「それだけカリスマがあった」ということですが、奉行所としては「これ以上放置しては、やがて手に負えなくなる」と危機感を募らせ、向崎甚内の粛清を決定。

そこへ奉行所は風魔一味の残党であった鳶沢甚内を呼び出して手引きさせ、向崎甚内を捕縛。各地の盗賊を扇動した咎により、市中引き回しの上、磔とされたのでした。

時に慶長18年(1613年)、先ほどの仮説によるなら享年25~28歳となります。

奉行所に捕らわれた時、向崎甚内は瘧(おこり。マラリア)を患っていたらしく「身体さえ自由に動けば、こんな不始末はしでかさなんだろうに」との無念から、死後に瘧を治す神様になったのでした。

そこで、誰が祀ったか浅草橋(現:東京都台東区)に甚内神社が創建され、今も病気平癒を願う多くの参拝者が訪れるそうですが、果たして盗み癖の病いには効くのでしょうか。

※参考文献:
津田敬順『遊歴雑記』三弥井書店、1995年4月
三浦浄心『慶長見聞集』冨山房、1906年6月
菊池沾凉『江戸砂子』東京堂、1975年

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