New! 道長の妻たち&子供たち【光る君へ】

立派な陵墓を造るよりも…平安時代の名君・淳和天皇が皇室史上唯一の散骨を望んだ理由とは

平安時代
スポンサーリンク

自分が死んだら、その遺灰を海にまいて欲しい……最近、自身の埋葬方法として遺灰を好きな場所にまいてもらう「散骨」が人気だそうです。

窮屈なお墓の中より、雄大な自然に還ってその一部となりたい……そんな散骨の歴史は古く、日本では平安時代に行われた記録がありました。

淳和天皇。Wikipediaより

今回は平安時代、自身の遺灰を散骨するように遺言した淳和天皇(じゅんなてんのう。第53代)のエピソードを紹介したいと思います。

スポンサーリンク

歴代名君の一人として

淳和天皇は奈良時代末期の延暦5年(786年)、桓武天皇(かんむてんのう。第50代)の第7皇子として誕生しました。

桓武天皇。Wikipediaより

大同5年(810年)に皇太子となり、弘仁14年(823年)に兄・嵯峨天皇(さがてんのう。第52代)から皇位を譲られ、即位します。

しかし元から皇位を望んではおらず、むしろ大同元年(806年)には父帝の崩御をキッカケとして臣籍降下(しんせきこうか。皇族身分を離れ臣下となること)を願い出て、兄・平城天皇(へいぜいてんのう。第51代)に遺留されるなど無欲な性格でした。

とは言え、ひとたび即位した以上は少しでもよい治世を心がけようと政務に励みました。有能な人材の積極登用や腐敗していた地方政治の是正、農地改良による収入増加など、歴代名君の一人として実績を上げています。

そんな淳和天皇は天長10年(833年)に皇位を返上するべく兄・嵯峨天皇の子である仁明天皇(にんみょうてんのう。第54代)に譲位しました。

恒貞親王。Wikipediaより

仁明天皇は、本来ならば淳和天皇の皇子が皇位を継ぐのが筋と思ってか、淳和天皇の皇子である恒貞親王(つねさだしんのう)を皇太子に指名します。

恒貞親王は有力貴族の後ろ盾がないため、後のトラブルを憂えて皇太子の座を辞退しました。しかし断り切れず、淳和天皇も憂慮していたところ、その予感は的中してしまったのでした(承和の変)。

今宜砕骨爲散之山中……

さて、次世代に憂いを残す淳和天皇は承和7年(840年)5月8日、宝算55歳で崩御されます。

かねがね天皇陵の造営が人民にとって大きな負担となっていることを憂えていた淳和天皇は、中心の藤原吉野(ふじわらの よしの)に自分の死後、墓は造らず遺灰を散骨するよう指示しました。

……予聞、人沒精魂帰天、而空存家墓、鬼物憑焉終乃爲祟、長貽後累、今宜砕骨爲散之山中……

(予、聞く。人没して精魂天に帰し、して空しく家墓を存す。鬼物ここにつきてすなわち祟りをなし、長く後累を貽(おく)る。今よろしく骨を砕きてこれを山中に散らしなせ)

※『続日本後紀』

【意訳】私は知っている。人が死ねば魂は天に帰り、墓など残しても意味はない。そればかりか、やがて鬼や物怪が墓に棲みついて祟りをなし、長くトラブルを惹き起こすものだ。なので私が死んだら、その骨を砕いて山中にまくように。

現代的に表現するなら

♪私のお墓の前で泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています……♪

※秋川雅史「千の風になって」

と言ったところでしょうか。

これを聞いた一同は、民を思われる陛下の大御心にふれて感涙にむせびますが、いくら何でもそれでは臣下としてあまりに忍びないと藤原吉野は諫言します。

……山陵猶宗廟也、縦無宗廟臣子何處仰……

(山陵、なお宗廟なり。よし宗廟なくば臣子いづくを仰がん)

【意訳】そうはおっしゃいますが、山稜は歴代陛下の御霊をお祀りする心のよりどころ。もしそれがなければ、私たち臣下はどこを拝めばよいのでしょうか。

しかし、それでも淳和天皇の決心は揺らぐことなく、結局は遺詔に従って遺灰は大原野西嶺(現:京都市西京区の小塩山)に散骨されました。

淳和天皇の遺命をまっとうした藤原吉野。Wikipediaより

これが大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)であり、散骨に際して遺灰が風に流された場所が、現在の西京区大原野灰方町(はいがたちょう)なのだそうです。

終わりに

以上、淳和天皇の散骨エピソードを紹介しました。遺骨を墓に納めず散布してしまうのは死者に対して忍びないという思いが強かったのか、あまり散骨は普及しませんでした(少なくとも、皇室においてはこれが唯一の事例)。

様々な供養

最近では海や野山に留まらず、遺骨を宇宙へ向けて発射する宇宙葬なんてものまであるそうです。

いつの時代も死に対する強い関心と、最期まで自分らしさを追求したいと願う価値観の多様さが感じられますね。

※参考文献:

  • 佐伯有義 編『六国史 巻六 続日本後紀』朝日新聞社、1930年2月

コメント

タイトルとURLをコピーしました