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【鎌倉殿の13人】頼朝に第3の女現る!江口のりこ演じる「亀の前」政子が激怒した不倫事件

大河ドラマ
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頼朝がふと、庭に目をやった。女が掃除の手を止め、頼朝を見ている。亀という名の漁師の娘だった。

(中略)

この夜、頼朝は、亀を部屋に招き入れていた。
「お逃げください。この女の夫が乗り込んできます」
側近の安達盛長が急を告げ、頼朝と亀は宿の外に避難する。その直後、亀の夫・権三が踏み込んできた。

※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第7回あらすじより。

八重姫(演:新垣結衣)、北条政子(演:小池栄子)に続いて、源頼朝(演:大泉洋)の前に現れた第3の女・(かめ。演:江口のりこ)。

江口のりこ演じる亀(亀の前)。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式ウェブサイトより

安房国へ逃れてきた頼朝に近づき、やがて鎌倉じゅうを巻き込む大騒動の一因となる彼女は、いったいどのような女性だったのでしょうか。

設定では安房国に住む漁師の娘で、権三(ごんぞう)という夫がいながら頼朝と懇ろな関係になることがわかります。

そこで今回は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』より、亀(亀の前)にまつわるエピソードを調べてみました。

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史実では伊豆の流人時代から頼朝に仕えた

寿永元年六月小一日庚子。武衛以御寵愛妾女 号龜前 招請于小中太光家小窪宅給。御中通之際。依有外聞之憚。被搆居於遠境云々。且此所爲御濱出便宜地云々。是妾。良橋太郎入道息女也。自豆州御旅居奉昵近。匪顏貌之濃。心操殊柔和也。自去春之比御密通。追日御寵甚云々。

※『吾妻鏡』寿永元年(1182年)6月1日条より

【意訳】頼朝は亀前(かめのまえ)という愛人を、小窪(小坪。神奈川県逗子市)にある小中太光家(こちゅうた みついえ。中原光家)の家に住まわせた。

不倫の外聞を気にして、鎌倉より離れたところを選んだのだとか。ここなら浜遊びにかこつけて密会しやすく好都合であるとも。

この亀前は良橋太郎(よしはしのたろう)入道の娘で、頼朝が伊豆に流されていたころから懇ろな関係であった。

その顔立ちが端整であるのみならず、まことに柔和な心操(こころばせ)に惹かれ、この春ごろからますます熱を上げられたそうな。

亀との楽しいひととき。当時、八重姫や政子との関係はどうだったのだろうか(イメージ)

……どうやら安房国に住む漁師の娘というのは大河ドラマのオリジナル設定のようですね。

ただ、父である良橋太郎入道の名地(名乗りの土地)が下総国吉橋郷(現:千葉県八千代市)との説もあり、そこから伊豆に流されていた頼朝に出仕していた可能性もないとは言い切れません。

遠方から伊豆の頼朝に仕えた例としては、三河国小野田荘(現:愛知県豊橋市)を領していながら比企尼(ひきのあま。頼朝の乳母)に命じられて伊豆へ移り澄んだ小野田盛長(おのだ もりなが。安達盛長)などの例があります。

石橋山の合戦に敗れた頼朝の身を案じていたところ、安房国にたどり着いたとの報せを受けた亀が、実家を経由して頼朝の側へ駆けつけた……のかも知れません(恐らくはずっと伊豆でお呼びがかかる日を待っていたのでしょう)。

浮気に勘づく政子、密告する牧の方

さて、鎌倉近くへ亀の前を呼び寄せた頼朝は、ちょいちょい理由をつけて密会に行きます。

壽永元年六月小八日丁未。武衛渡御景廉車大路家。令訪病痾給。自今曉。心神復本之由申之。即令候御共。參小中太家云々。

※『吾妻鏡』寿永元年(1182年)6月8日条より

【意訳】頼朝は車大路にある加藤次景廉(かとう じかげかど)の病気見舞いに行ったところ、今朝がた回復したとの事でした。

それは好都合と景廉にお供を命じて、(亀の前が住む)小忠太の家へ行ったのだとか。

……どう見ても景廉の見舞いは、政子の目を盗んで御所を抜け出すための口実。病み上がりの者を密会のお供(見張り役?)にさせるなんて、普通にあり得ないでしょう。

歴戦の勇士・加藤次景廉。月岡芳年「月百姿 山木館の月」

政子「佐(すけ。頼朝)殿……加藤次殿のお見舞い、そんなに楽しみにございますか?」

頼朝「え?いやまぁ、その、加藤次は挙兵以来の忠臣であるからして、実に心配だなぁ……(棒)」

怪しい。絶対これは何かあるな……政子は勘づいたことでしょう。しかし今は長男・万寿(まんじゅ。源頼家)の出産を控えているため、それどころではありません。

果たして8月12日に初めての男児・万寿を出産。母子ともに健康で何より何より、あの男(頼朝)なんて可愛い我が子に比べれば……と思っていた政子に、いらんことを密告する者が現れました。

父・北条時政(ほうじょう ときまさ)の後妻・牧の方(まきのかた。大河ドラマでは「りく」)です。

「やっておしまい!」政子、愛人宅を破壊させる

壽永元年十一月小十日丁丑。此間。御寵女 龜前 住于伏見冠者廣綱飯嶋家也。而此事露顯。御臺所殊令憤給。是北條殿室家牧方密々令申之給故也。仍今日。仰牧三郎宗親。破却廣綱之宅。頗及恥辱。廣綱奉相伴彼人。希有而遁出。到于大多和五郎義久鐙摺宅云々。

※『吾妻鏡』寿永元年(1182年)11月10日条より

【意訳】亀の前は頼朝がより通いやすいよう、飯嶋(いいじま。現:神奈川県逗子市)にある伏見冠者広綱(ふしみ かじゃひろつな)の邸宅に移り住んでいた。

それを牧御方(牧の方)が言わなきゃいいのに御台所(政子)にわざわざ密告したため、ついに浮気がバレてしまった。

政子は牧三郎宗親(まき さぶろうむねちか。牧の方の兄or父)に命じて伏見広綱の館を襲撃・破壊せしめ大いに辱める。

広綱は亀の前を連れて何とか脱出、鐙摺(あぶずり。現:神奈川県横須賀市)にある大多和五郎義久(おおたわ ごろうよしひさ。三浦義澄の弟)の館にまで逃れたのだとか。

……「やっておしまい!」浮気された政子の報復は、亀の前に対する「後妻打ち(うわなりうち)」。

夫に捨てられた前妻(こなみ)が後妻(うわなり)を襲撃、ここぞとばかりに欝憤を晴らすのです。

大河ドラマでは、館の炎上シーンも観られる?かも(イメージ)

今回の襲撃は館までぶっ壊すという徹底的な手口で、政子の怒りを存分に表現したものと言えるでしょう。

「覚えておおき。我が夫に手を出す泥棒猫は、みんなこの通りだよ!」

かねてより恐れられていた政子の悋気(りんき。嫉妬深さ)がいかんなく発揮されたこの事件。愛人を預からされるだけでも負担なのに、館まで破壊されてしまった広綱はいい迷惑ですね。

逆ギレした頼朝、宗親の髻をバッサリ

さて、こうなっては頼朝も黙ってはいません。

壽永元年十一月小十二日己卯。武衛寄事於御遊興。渡御義久鐙摺家。召出牧三郎宗親被具御共。於彼所召廣綱。被尋仰一昨日勝事。廣綱具令言上其次第。仍被召決宗親之處。陳謝巻舌。垂面於泥沙。武衛御欝念之餘。手自令切宗親之髻給。此間被仰含云。於奉重御臺所事者。尤神妙。但雖順彼御命。如此事者。内々盍告申哉。忽以与恥辱之條。所存企甚以奇恠云々。宗親泣逃亡。武衛今夜止宿給。

※『吾妻鏡』寿永元年(1182年)11月12日条より

【意訳】頼朝は「遊びに行く」という名目で御所を出て、鐙摺の大多和邸を訪れた。そこで牧宗親と伏見広綱を呼び出し、双方から事情を聴き出す。

館を破壊した宗親はしどろもどろに謝罪し、顔面に泥がつかんばかりに土下座したが、頼朝は宗親に言った。

「お前は政子に仕えているから、彼女の命令を聞くのはもっともだ。しかしだからと言って、我が愛人を襲撃するという案件について、なぜ事前に情報を伝えてくれなかったのだ」

と怒り狂う余り、宗親の髻(もとどり)を切り落として辱めた。宗親は泣いて逃亡し、頼朝は大多和に泊まることにした。

……要するに逆ギレですね。でもまぁ、宗親にしても頼朝に一言断りを入れておけば、もう少し穏便(館を破壊するにしても、形だけに留めるなど)に済んだかも知れません。

「この野郎!」逆ギレして宗親の髻を切る頼朝(イメージ)

時に髻とは髪を結った根元をとった部分(元取り)で、要するに頼朝は宗親の髷をバッサリと切り落としたのでした。

当時の男性にとって髪をさらすのは非常に恥ずべきことであり、まして髻を切るのは自害の時に限られました。つまり、今回の暴挙は死にもまさる侮辱と言えます。

北条一族の謀叛!?あわてふためく頼朝は……

「流石にやっちまったかな……しかしまぁ、やっちまったものは仕方ない……さて寝るか」

と、その晩は亀の前とイチャイチャしたのでしょう。

頼朝「お亀や、怖かったねぇ。もう大丈夫だよ?」

亀「あぁ、佐殿……」

壽永元年十一月小十四日辛巳。晩景。武衛令還鎌倉給。而今晩。北條殿俄進發豆州給。是依被欝陶宗親御勘發事也。武衛令聞此事給。太有御氣色。召梶原源太。江間〔義時〕者有隱便存念。父縱插不義之恨。不申身暇雖下國。江間者不相從歟。在鎌倉哉否。慥可相尋之云々。片時之間。景季歸參。申江間不下國之由。仍重遣景季召江間。々々殿參給。以判官代邦通被仰云。宗親依現奇恠。加勘發之處。北條住欝念下國之條。殆所違御本意也。汝察吾命。不相從于彼下向。殊感思食者也。定可爲子孫之護歟。今賞追可被仰者。江間殿不被申是非。啓畏奉之由。退出給云々。

※『吾妻鏡』寿永元年(1182年)11月14日条より

一方その頃、兄を辱められた牧の方は夫・北条時政を嗾(けしか)け、一族郎党を鎌倉より退去させます。

「あぁ、楽しかった……ん?」

いい気分で朝帰りどころか2日後に鎌倉へ帰宅した頼朝に、北条一族が伊豆へ帰ってしまったことが告げられました。

「えぇっ!?そんな、心当たりがあり過ぎる……」

「佐殿め、若い後妻の前で恥をかかせおって……」一族郎党を率いて伊豆へ帰った時政(イメージ)

日ごろさんざん粗末にしておいて、いざ見限られると慌てふためく……我らが鎌倉殿ってのは、そういうヤツです(一方、そこが憎めないヤツでもありますが)。

頼朝は梶原源太景季(かじわらの げんたかげすえ)を呼んで、江間小四郎(えまの こしろう。北条義時)の所在を確認させます。

「そうだよ、アイツ(義時)ならたとえ分からず屋の父(時政)が伊豆に帰っても、我が意を汲んで鎌倉に残っていてくれるはずだ……頼む。そうであってくれ……!」

義時にまで見放されたら、北条は完全に敵対する意思を示したことになる……そうなったら、ようやく形を成しはじめた鎌倉政権はおしまいです。

「江間殿なら、館にいましたよ」

「そうか!」

義時の在宅を知った頼朝は、きっと天にも昇る心地だったことでしょう。だったら日ごろから御家人たちを大切にせえよと思いますが、まぁそれはともかく。

「……いやぁ、宗親のヤツがバカなことをやらかしたンで罰したところ、時政がヘソを曲げて伊豆に帰っちまったンだよ。でも義時、お前はちゃんと鎌倉に残ってくれた。偉い!お前は必ずや我が子孫の守護者となるだろう。素晴らしい忠義に対して褒美を弾まねばならんな!」

御所へ呼び出された義時は、事情も何もわからずただベタ褒めされ、畏まって退出したのでした。

(……そもそも、それがしの元へは父から何の報せもなかったしなぁ。ただボケーっと館にいただけなんだけど……)

義時は江間次郎(えま じろう)の遺領である江間荘(現:静岡県伊豆の国市)を治めていたことから北条ではなく江間を名乗っており、時政から一族とみなされていなかった可能性もあります。

ともあれ、この一件をキッカケに義時は頼朝の側近としてますます重用され、時政たちもどうにか機嫌を直すのでした。

エピローグ「大いなる 夫婦喧嘩の とばっちり」

それからおよそひと月が経った12月10日、亀の前は元いた小忠太光家の館へ移されます。

「もうあんな恐ろしい思いはしたくありません。わたくし、お暇したく存じます」

「まぁまぁ、そう言うなって。もう大丈夫だから、今度こそ……」

ちっとも反省しない頼朝に腹を立てた政子は12月16日、亀の前を匿っていた伏見広綱を遠江国(現:静岡県西部)へと流罪にしました。

広綱にしてみれば、愛人の面倒を見させられた上に館を破壊され、挙げ句は流罪に処されるという理不尽千万。大いなる夫婦喧嘩のとばっちりを食わされたのでした。

その後、亀の前は……(イメージ)

これ以降、亀の前は『吾妻鏡』から姿を消します。欠文となっている寿永2年(1183年)に何かあったものと思われますが、出来れば穏便な結末であって欲しいと願うばかりです。

以上、頼朝の愛人「亀の前」について紹介してきました。大河ドラマでは少し雰囲気が違って、政子や八重姫には一歩譲りつつも、自分の欲望をしたたかに追求していく女性のようです。

源頼朝の愛妾 亀

安房の漁師の娘。「石橋山の戦い」に敗れて同地に渡海した頼朝とひょんなことから出会い、気に入られる。亀は夫のいる身であったが頼朝に惹かれ、その妾となる。頼朝が鎌倉に御所を構えると、侍女として御所で働き、政子の目を盗んで頼朝と逢瀬を重ねる。八重が頼朝と男女の仲であったことを察すると、八重にライバル心を燃やす。亀の存在はやがて政子の知るところとなり、頼朝との愛の巣は燃やされてしまう。その後、新しい屋敷を与えられた亀は、政子の来訪を受ける。

※『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 前編』より

江口のりこさんがどのような「亀の前」を魅せてくれるのか、これから楽しみですね!

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 1 頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年11月
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
  • 『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 前編』NHK出版、2022年1月
  • 『NHK2022年大河ドラマ 鎌倉殿の13人 完全読本』産経新聞出版、2022年1月

※画像出典:NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式ウェブサイト

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