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【鎌倉殿の13人】巴御前ってどのくらい強かったの?秋元才加が演じる女武者の武勇伝を紹介!

古典文学
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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で本格始動した木曽義仲(演:青木崇高)。漢気あふれるキャラクターとワイルドな風貌で、早くも視聴者の人気を集めています。

その傍らには乳兄弟の今井兼平(演:町田悠宇)と幼なじみの巴御前(演:秋元才加)が頼もしく控えていました。

巴御前。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより

さて、義仲と言えば必ずペアで登場する美しき女武者・巴御前(ともえごぜん)。果たして彼女は実在したのでしょうか。

残念ながら、巴御前は鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には登場せず、活躍の舞台は『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語に限られています。

それだけで架空の人物と決めつけるのは早計ながら、やはり公的に認められた存在でなかったことは否めません。

巴御前の勇姿。勝川春亭筆

『平家物語』では義仲の最期(木曽最期)にだけ登場する一方、『源平盛衰記』では挙兵当初から大将の一人として長く活躍したことが書かれています。

今回は『平家物語』における巴御前の引き際を紹介。大河ドラマではどのように描かれるのか、見比べるのも面白いですね。

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『平家物語』が伝える巴御前の女武者ぶり

巴は色白く髪長く、容顔まことにすぐれたり。ありがたき強弓精兵、馬の上、徒立ち、打物持つては鬼にも神にもあはうどいふ一人当千の兵者なり。究竟の荒馬乗り、悪所落し、軍といへば、札よき鎧着せ、大太刀、強弓持たせて、まづ一方の大将には向けられけり。度々の高名肩並ぶる者なし……

※『平家物語』巻第九「木曽最期」より

奮戦する巴御前。揚州周延筆

【意訳】巴御前は色白で髪は長く、顔立ちも実に美しい。強弓の名手で騎馬でも徒歩でも、いざ刀を持って白兵戦となれば、たとえ鬼神であろうと挑みかかる一騎当千の強者である。どんな荒馬でも乗りこなして、悪路も怯まず駆け抜ける。そこで義仲は戦になると、彼女にしっかりした鎧に大太刀、強弓を与えて一軍を任せた。その期待に応え、数々の戦場で武功を立てる様子は、木曽軍中でも比肩する者がいないほどであった。

……美しさと強さ、そして将器を兼ね備えた巴御前。『平家物語』では割愛されているものの、上洛途上に立ちはだかった平家の軍勢とたびたび激闘を繰り広げてきたことが分かります。

そんな巴御前たちの助けを得て上洛を果たした義仲ですが、寄せ集めの軍勢を制御し切れず、京都洛中では狼藉三昧。暴行や略奪、挙句は追剥ぎや強盗まで……義仲もそれに苦慮していたのか、あるいは「それが戦場の習いってモンさ」と放置したのかも知れません。

しかし後白河法皇(ごしらかわほうおう)をはじめ朝廷当局や都人らとすれば迷惑千万というもの。すぐにも狼藉を停止(ちょうじ)するよう言いつけますが、義仲はこれを聞き流し、使者をからかう始末。

『平家物語絵巻』より、義仲の軍勢を迎え撃つ後白河法皇の軍勢。

かくして朝敵となった義仲は逆ギレして後白河法皇を幽閉するのですが、それが鎌倉の源頼朝(みなもとの よりとも)らに討伐=上洛の大義名分を与えてしまいます。

果たして源範頼(のりより)・源義経(よしつね)らに攻められ、いよいよ最期の時を迎えるのでした。

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首ねぢ斬つて捨ててんげり…『平家物語』が伝える巴御前「最後の奉公」

木曽百余騎、六千余騎が中を縦様、横様、蜘蛛手、十文字に駆け破つて、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこを破つて行くほどに、土肥の次郎実平二千余騎で支へたり。それを破つてゆくほどに、あそこでは四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を駆け破り駆け破りゆくほどに、主従五騎にぞなりにける。五騎が内まで巴は討たれざりけり。
木曽殿、
「己は女なれば、いづちへも行け。我は討死せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曽殿の最後の軍に、女を具せられたりけりなんどいはれん事も然るべからず」
と宣ひけれども、なほ落ち行かざりけるが、余りにいはれ奉つて、
「あつぱれ、よからう敵がな。最後の軍して見せ奉らん」
とて、控へたるところに、武蔵国に聞こえたる大力、御田の八郎師重、三十騎ばかりで出で来たり。巴、その中へ駆け入り、御田の八郎に押し並べて、むずと取つて引き落とし、我が乗つたる鞍の前輪に押し付け、ちつとも動かさず、首ねぢ斬つて捨ててんげり。その後、物具脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く……。

※『平家物語』巻第九「木曽最期」より

敵の首をねぢ斬らんとする巴御前。ここでは敵が内田三郎となっている。歌川国芳「武英猛勇鏡 巴御前 内田三郎」

【意訳】義仲は生き残った軍勢100騎ばかりで敵勢6,000余騎の中へ突入。タテヨコ・ナナメ・十文字と滅茶苦茶に暴れ回って脱出したところ、軍勢は50騎ほどに減っていた。
次は土肥次郎実平(どい じろうさねひら)が2,000余騎の軍勢で待ち受けていたので、それも突破。
次々と襲いかかる敵勢4~500騎、2~300騎、140~150騎、100騎と突破した結果、主従5騎のみが生き残っていた。巴御前も討たれることなく残っている。
「そなたは女(おなご)であるから、早く落ち延びろ。これより我らは討死するが、そなたがおっては『木曽は最期まで女に未練を残した』と笑われてしまう」
義仲はそう言ったものの、巴御前は最期までお供したいと言いすがる。しかし結局は去ることを承諾。
「ならば仕方ありません。どこかによい敵はいないものでしょうか。最後のご奉公をお目にかけましょう」
とそこへ、武蔵国でも有名な豪傑・御田八郎師重(おんだの はちろうもろしげ)が30騎ばかりを引き連れて襲来。
巴御前は喜び勇んで挑みかかり、師重を馬から引きずり落とすと鞍の前輪に押しつけ、その首をねじ切って投げ捨てる。
これで十分とばかり巴御前は武器を捨てて鎧を脱ぎ捨て、東国の方へと去って行くのであった。

……ただ100騎で60倍もの敵に突入し、何度も敵を突破してとうとう5騎にまで削れても生き残っていた巴御前。やはり並大抵の武力ではなかったようです。

最後の奉公として御田八郎師重を倒した場面では、何と「首ねぢ斬つて捨ててんげり」。その語感と相まって、凄まじい怪力が伝わります。

(素手でねじ切ったようにも思えますが、もし現実であるなら恐らく脇差をもう片手で抜いて首を掻き切ったのでしょう。それでも、十分に凄いですが)

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エピローグ・異本と晩年

以上『平家物語』から巴御前の豪傑ぶりを紹介しましたが、ほかの異本では若干の違いがあります。

『平家物語絵巻』より、義仲に別れを告げる巴御前

主従7騎にまで減った時点で左右から襲われた巴御前は、両脇に一人ずつ挟み込んで絞め殺し、頭がもげた。そして主従5騎になった時点では既におらず、行方不明(延慶本)

追撃してきた敵将を返り討ちにした後、義仲に「我が菩提を弔うことが最後の奉公」と諭されて東国へ去った(百二十句本)

義仲と別れて落ち延びた後、越後国友杉(※)に住んで出家した(長門本)
(※)越後国は現代の新潟県に当たるものの、友杉という地名を調べても富山県にしか見当たらないため、越中国の間違い?

また『源平盛衰記』では落ち延びた後に鎌倉へ召し出され、和田義盛(わだ よしもり)の妻にされて豪傑・朝比奈義秀(あさひな よしひで)を生んでいます。

この義秀も数々の武勇伝を持つ豪傑なので、人々は「きっと巴御前から生まれたに違いない」と思ってこのような伝承が生まれたのでしょう。

後に夫となる?和田義盛との一騎討ち。歌川芳虎 「粟津合戦」

その後、建暦3年(1213年)に和田合戦(和田義盛Vs北条義時)で義盛ら和田一族が滅亡すると、越中国の石黒光弘(いしぐろ みつひろ。元義仲の家人)を頼って移住。

出家して義仲や義盛たちの菩提を弔い、91歳で生涯をまっとうしたのでした。

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終わりに

巴御前の年齢については諸説あるものの、『源平盛衰記』に倣って義仲が討死した寿永3年(1184年)時点で28歳と仮定すると、保元2年(1157年)生~宝治元年(1247年)没と考えられます。

和田合戦で大暴れする義秀。人間離れした所業も、巴御前の子ならでは?歌川国芳「和田合戦 義秀惣門押破」

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では和田合戦も言及されるでしょうから、そこで活躍した朝比奈義秀の母が巴御前……という説が採用されるかも知れません。

果たして三谷幸喜の脚本が巴御前をどのように描き上げるのか、これからも楽しみですね!

※参考文献:

  • 細川涼一『平家物語の女たち 大力・尼・白拍子』講談社現代新書、1998年10月
  • 鈴木彰ら編著『木曾義仲のすべて』新人物往来社、2008年12月

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