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【鎌倉殿の13人 後伝】滅ぼされた梶原景時(中村獅童)一族。その子孫たちを紹介!

南北朝・室町時代
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正治2年(1200年)1月20日。鎌倉幕府の侍所別当であった梶原景時(演:中村獅童)一族が滅ぼされてしまいました。

その息子たちも父と運命を共にしており、長男の梶原景季(演:柾木玲弥)から末子の梶原景連(かげつら)までことごとく討死しています。

頼朝公の懐刀として活躍した梶原景時。歌川国芳筆

かくして「鎌倉の本体の武士(鎌倉武士の理想)」とも謳われた景時の血統が絶たれたかと思いきや、実は子孫が生き延びていたというのです。

という訳で、今回は江戸時代の系図集『系図纂要(けいずさんよう)』から、景時の子孫たちを紹介しようと思います。

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梶原景高(景時次男)の末裔たち

粛清の魔手を逃れ、梶原の血脈をつないだのは大きく分けて二系統。

景時次男・梶原景高。豊原国周筆

景時の次男・梶原景高(かげたか)と、同じく三男・梶原景茂(かげもち)の子孫でした。さっそくそれぞれ見ていきましょう。

【梶原景高の子孫・略系図】

梶原景高-上坂景信-上坂景家-上坂景重-上坂景春-上坂景久

※『系図纂要 五十 平氏 五』

上坂景信(こうさか かげのぶ)

生没年不詳、通称は平八兵衛(へいはちひょうゑ)。

父や祖父の粛清を逃れて近江国坂田郡上坂(こうさか)へ落ち延びたと言います。

上坂景家(かげいえ)

生没年不詳、通称は平兵衛尉(へいひょうゑのじょう)。

名前が伝わるのみで、詳しい事績などは不明です。

上坂景重(かげしげ)

寛正5年(1464年)生~永正13年(1516年)3月9日没

通称は平二郎(へいじろう)、京極(きょうごく)氏に仕えて治部大輔を称しました。後に出家して泰貞奇と号します。

主君・京極高清(たかきよ)の息子である上坂泰舜(やすきよ)を養子に迎え、今浜城(長浜城)の城主としました。しかし泰舜は永承15年(1518年)、浅井(あざい)氏に攻められ、立ち去ったということです。

上坂景春(かげはる)

生没年不詳、通称は掃部(かもん)。

景重の実子みたいですが、名前が伝わるのみで、詳しい事績などは不明です。

上坂景久(かげひさ)

生没年不詳、通称は八郎右衛門(はちろうゑもん)。

こちらも名前が伝わるのみで、詳しい事績などは不明です。

以上ですが、景高(永万元・1165年生~正治2・1200年没)の曾孫である景重が戦国時代に生きていたというのはあり得るのではしょうか。

一世代ごとの年齢差が20~30歳と仮定した場合、息子の景信は文治元年(1185年)~建久6年(1195年)の間で生まれたことになります。

同じ要領で下っていくと、孫の景家は元久2年(1205年)~嘉禄元年(1225年)の間に生まれ、曾孫の景重は嘉禄元年(1225年)~建長7年(1255年)生まれと考えるのが自然でしょう。

二世紀以上もラグが生じているのは、もしかしたら詳しい記述がある景重を基準として「上坂家は梶原景高の子孫」という伝承をあてはめたのかも知れません。

なので系図は実線つまり直接の家督継承関係ではなく、破線(点線。途中が略されている)だった可能性が濃厚のようです。

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梶原景茂(景時三男)の子孫たち

梶原景茂。画像:Wikipedia

もう一つ、梶原景茂の系統も見ていきましょう。

【梶原景茂の子孫・略系図】

梶原景茂-梶原景俊-梶原景綱-梶原景信-梶原景資-梶原景遠-梶原時景-梶原宗景-梶原時景

※『系図纂要 五十 平氏 五』

梶原景俊(かげとし)

生没年不詳、通称は上野介(こうずけのすけ)。詳しい事績は不明です。

特に苗字を変えた様子もないため、以降も梶原で統一します。

梶原景綱(かげつな)

生没年不詳、通称は太郎左衛門(たろうざゑもん)。こちらも詳しい事績は伝わっていません。

梶原景信(かげのぶ)

生没年不詳、通称は上野介。やはり具体的な生涯は記録なしです。

梶原景資(かげすけ)

生没年不詳、通称は太郎左衛門。上野介と太郎左衛門を交代で襲名しているようですね。やはり詳しい記録は残されていません。

梶原景遠(かげとお)

生没年不詳、通称は左衛門尉(さゑもんのじょう)。上野介の襲名は叶わなかったものと見られ、パターンを崩してきました。

梶原時景(ときかげ)

生没年不詳、通称は尾張守(おわりのかみ)。時の字は執権・北条氏とよしみを通じていたのでしょうか。

梶原宗景(むねかげ)

生没年不詳、通称は父親から襲名した?尾張守。この宗は執権・北条時宗(ときむね)から拝領したのかもしれません(世代が合うのであれば)。

梶原時景(ときかげ)

生没年不詳、通称は右京亮(うきょうのすけ)。祖父と同じ諱ですが、通称で判別するのがおすすめです。

……以上、梶原景茂の子孫たちも紹介してきました。こちらはみんな生没年不詳。先ほどと同じ要領で生まれた年代を仮定してみましょう。

梶原景茂:仁安2年(1167年)生

梶原景俊:文治3年(1187年)~建久8年(1197年)生

梶原景綱:承元元年(1207年)~嘉禄3年(1227年)生

梶原景信:嘉禄3年(1227年)~正嘉元年(1257年)生

梶原景資:宝治元年(1247年)~弘安10年(1287年)生

梶原景遠:文永4年(1267年)~文保元年(1317年)生

梶原”尾張守”時景:弘安10年(1287年)~貞和3年(1347年)生

梶原宗景:嘉元4年(1307年)~永和3年(1377年)生

梶原”右京亮”時景:嘉暦2年(1327年)~応永14年(1407年)生

世代を下るごとに生まれた年の範囲が広がってしまいますが、末代(景茂から数えて9代目)の右京亮時景は、鎌倉時代の末期から南北朝時代にかけて生まれたようです。

果たして彼らがどのような生涯を送り、活躍したのか、今後の究明が俟たれます。

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終わりに

義経に諫言する景時。楊洲周延筆

今回紹介した以外にも、梶原氏の末裔がしぶとく生き延びていたという伝承が各地にあるようです。

戦国時代に瀬戸内海の水軍として活躍した讃岐梶原氏や、室町時代に鎌倉府を支えた武蔵梶原氏。また織田信長(おだ のぶなが)に仕えた尾張梶原氏など、時の英雄たちを支えました。

彼らのエピソードについても、また改めて調査し、紹介したいと思います。

※参考文献:

  • 『系図纂要 五十 平氏 五』国立公文書館デジタルアーカイブ

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