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野郎ども、出陣だよ!水軍を率いて元寇を撃退した女城主・天草大夫大蔵太子の武勇伝

伝承民俗
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鎌倉時代、ユーラシア大陸に覇を唱えたモンゴル帝国(元王朝)が当時世界最大級の艦隊を率いて日本に襲来した元寇(げんこう。蒙古襲来)

これを防がねば日本は蹂躙され、他の王朝や国々のごとく虐殺と凌辱の憂き目を見せられる……そんな必死さからか、鎌倉幕府は数万から数十万とも言われる兵力を掻き集めて防衛に当たらせたとか。

続々と参集する御家人たち。『蒙古襲来絵詞』より

その戦列には女性までも加わっていたと言い、今回は水軍を率いて蒙古襲来を撃退した女傑・天草大夫大蔵太子(あまくさだゆう おおくらのたかこ)のエピソードを紹介。

果たして彼女は、どのような活躍を見せたのでしょうか。

(※)名前の読みについては「ふとこ」「もとこ」「たいこ」など諸説あるようです。

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豪傑ばあさん、戦場に立つ

天草大夫大蔵太子は大蔵右馬太郎種有(うまたろう たねあり)の娘として本渡城(現:熊本県天草市)に生まれ、貞永2年(1233年)に父から地頭職と城主の座を譲られました。通称は播磨局(はりまのつぼね)。

当時は女性であっても土地や家督を相続したり、新たに分家を立てたりする権利が認められており、それぞれ所領を譲られた兄の大蔵種秀(たねひで)、大蔵種資(たねすけ)と肩を並べています。

子供は授からなかったのか、それともそもそも結婚しなかったのか、後に甥(種資の子)である大蔵兵衛次郎種増(ひょうゑのじろう たねます。種益)を養子にとって家督を継がせました。

奮戦する御家人たち。『蒙古襲来絵詞』より

この種増が元寇に際して武功を立て、播磨局も共に出陣したそうですが、その時点で相当な高齢者の筈です。

播磨局の生年は不明ですが、家督を継いだ貞永2年(1233年)の時点で仮に14歳(満13歳)、承久2年(1220年)生まれとしましょう。

すると、第1回襲来(文永の役。文永11・1274年)時点で55歳、第2回襲来(弘安の役。弘安4・1281年)時点では62歳、当時の感覚ではいつ「お迎え」が来てもおかしくありません。

まぁ、それでも出陣したのです。水軍を率いた女城主なんて聞くと、和田竜『村上水軍の娘』の主人公みたいな若くて溌剌とした少女(※)を連想しますが、現実的には宮崎駿「天空の城 ラピュタ」に登場する女海賊・ドーラのような豪傑ばあさんだったのでしょう。

(※)たかぎ七彦『アンゴルモア 元寇合戦記』でも若い女性として登場していますが、やっぱり暴れ回らせるには婆さんじゃちょっと……ですからね。

「野郎ども、覚悟はいいかい?大陸のバカどもに一泡吹かせておやり!」

「「「おおぅ……っ!」」」

奮戦した?播磨局(イメージ)

甲冑に身を装ったであろう婆さん一味がどのような活躍をしたのか、残念ながらその詳細は伝わっておらず、ゲリラ的な作戦行動に従事した、あるいはそもそも正規軍として認識されていなかったのかも知れません。

風神の御加護に感謝、諏訪神社を創建

さて、いわゆる神風のおかげ(※暴風雨については諸説あり)もあって幕府軍は辛くも勝利。種増は今回の武功によって天草大夫(天草郡の主か)の名乗りを許され、以来天草氏を称するようになります。

「これも風神様の御加護。諏訪明神をお祀りして、永く感謝の誠を示そうぞ」

本渡諏訪神社(画像:公式サイトより)

そこで弘安6年(1283年)に信州・諏訪大社より御分霊をいただき、本渡諏訪神社(公式サイト)を創建。以来天草領内の総鎮守として広く崇敬を集めたのでした。

以上、天草大夫大蔵太子のエピソードを紹介しましたが、日本の合戦史で活躍した女性は他にもたくさんいたでしょうから、記録から洩れた女傑たちの武勇伝をこれからも発掘していきたいものです。

※参考文献:

  • 上田宜珍 編『天草郡史料』臨川書店、1986年8月
  • 本渡市史編さん委員会 編『本渡市史』本渡市、1991年12月

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