New! 源方理はなぜ失脚した?その理由は

【歴人録】道兼の娘・藤原尊子とはどんな女性?その生涯をたどる【光る君へ】

平安時代
スポンサーリンク

兼家「お前の娘はまだ3歳だが、いずれ帝に入内させたい。そのことも、わしはちゃんと考えておる」
道兼「まことでございますか?」
兼家「孫娘が2人も后になると思うと、わしは何という幸せ者か。お前が、道を切り開いてくれたと思っておる……」

※第11回放送「まどう心」より

さて、一条天皇の即位によって権勢を極めた藤原兼家たち。

摂政にまで上り詰めたら、後は次世代に託そうと、嫡男の藤原道隆に権力を移し始めます。

それが気に入らないのは次男の藤原道兼。花山天皇をお謀り奉るという汚れ役を引き受けたのに、評価されるのは兄ばかり……。

それをなだめるため、兼家は道兼の娘を入内させる計画を示したのでした。

さて、この娘は成長して藤原尊子(そんし/たかこ)と呼ばれます。

兼家の言葉どおりに一条天皇へ入内するのですが、どんな女性だったのでしょうか。

という訳で、今回は藤原尊子の生涯をたどってみたいと思います。

スポンサーリンク

藤原尊子の生涯を駆け足でたどる

道兼(甥)と繁子(叔母)。NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより

藤原尊子は永観2年(984年)、藤原道兼と藤原繁子との間に生まれました。

藤原繁子(はんし/しげこ)は兼家の妹で、道兼の叔母に当たる女性です。

繁子は一条天皇の乳母として、劇中でもひっそりと、しかし大抵いつも登場しています。

さて、15歳となった尊子は長徳4年(998年)、4歳年長の一条天皇に入内しました。

この時に御匣殿別当(みくしげどのべっとう)となり、従五位上に叙せられます。

長保2年(1000年)8月に女御宣下を受け、寛弘7年(1010年)までに従二位へと昇りました。

しかし、一条天皇との間に皇子・皇女は生まれません。夫婦間の関係に何かあったのか、人々からは暗戸屋女御(くらとやのにょうご)と呼ばれたそうです。

少なくとも、寵愛を受けている様子は感じられませんね。

やがて寛弘8年(1011年)には一条天皇が崩御してしまいます。

しばらく喪に服した尊子は、長和4年(1015年)10月に参議であった藤原通任(みちとう。10歳年長)と再婚しました。

しかし通任との間にも子供は授からず、治安2年(1023年)12月25日に薨去します。享年40歳。

藤原尊子・略年表

藤原尊子が入内した一条天皇(画像:Wikipedia)
  • 永観2年(984年) 誕生(1歳)
  • 長徳元年(995年) 父・藤原道兼が薨去(12歳)
  • 長徳4年(998年) 一条天皇に入内(15歳)
  • 長保2年(1000年) 女御宣下、従五位上(17歳)
  • 長保3年(1001年) 従四位下(18歳)
  • 長保6年(1004年) 従四位上(21歳)
  • 寛弘2年(1005年) 従三位→正三位(22歳)
  • 寛弘7年(1010年) 従二位(27歳)
  • 寛弘8年(1011年) 一条天皇が崩御(28歳)
  • 長和4年(1015年) 藤原通任と再婚(32歳)
  • 治安2年(1023年) 薨去(40歳)

こうして見ると、一条天皇との結婚生活が13年間、藤原通任との結婚生活が8年間。

宮中においては暗戸屋女御と呼ばれ、再婚相手には嫡妻&嫡男がおり……果たして尊子は幸せに暮らせたのでしょうか。

あまり華々しくなかったことは想像に難くないものの、ささやかでも幸せであって欲しいと願います。

終わりに

以上、道兼の娘である藤原尊子の生涯をたどってきました。

物語上あまり重要な位置にいないため、恐らく本編には登場しないのではないでしょうか。

ただ、もしかしたら登場するかも?登場するなら誰がキャスティングされるだろう?と想像してみるのも楽しいものです。

皆さんは、藤原尊子の出演はあると思いますか?もしあるとしたら、誰に演じて欲しいですか?

楽しみにしておきましょう!

コメント

タイトルとURLをコピーしました