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【歴人録】三浦按針(ウィリアム・アダムス)とは何者?徳川家康に仕えた生涯をたどる

戦国時代
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時は慶長5年(1600年)3月16日、オランダの商船・リーフデ号が豊後国臼杵黒島に漂着しました。

乗り組んでいたのはヤン=ヨーステン(のち耶楊子)、メルキオール・ザントフォールトら24名。

一行の中にいたウィリアム・アダムスは、やがて徳川家康に仕え、三浦按針(みうら あんじん)と改名します。

今回は安針塚に名前を残した三浦按針ことウィリアム・アダムスの生涯をたどってみましょう。

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生い立ちから結婚まで

ウィリアム・アダムスは1564年9月24日、イングランド王国のケント州ジリンガムで生まれました。

日本では、徳川家康(当時は松平元康)が三河一向一揆をなんとか平定した辺りですね。

幼いころに船乗りだった父親を亡くし、12歳となった1576年、船大工のニコラス・ディギンズに弟子入りしたのでした。

造船術を叩き込まれたことでしょうが、ウィリアムはむしろ船に乗って航海する方に興味津々。1588年に年季奉公が明けると24歳で海軍に入隊します。

そして補給船リチャード・ダフィールド号の船長に抜擢されたと言うので、よほど航海術を熱心に学んだのでしょう。

同年7月31日から8月8日にかけて繰り広げられたアルマダの海戦に参加。

フランシス・ドレーク提督の指揮下において、当時は世界最強と謳われたスペインの無敵艦隊を撃破。その一翼を担ったのでした。

歴史的大事件の目撃者として現場に立ち会ったウィリアムは、さぞや高揚したことでしょう。

しかし翌1589年には海軍を除隊。メアリー・ハインと結婚しました。

二人の間には長女デリヴァレンス・アダムス、長男ジョン・アダムスを授かります。

しかしウィリアム自身は民間航海士として多忙を極め、なかなか家に帰れなかったそうです。

いざ、極東へ!地獄の航路

日本を目指した船団(画像:Wikipedia)

そんな中、オランダで極東航路の開拓船団が航海士を募集しているとの報せを得て、いても立ってもいられなくなりました。

さっそく弟のトマス・アダムスらと一緒に船団に参加し、司令官のジャック・マフからホーぺ号の航海士に抜擢されたのです。

【船団の編成】

  • ホーペ号(希望)
  • リーフデ号(愛)
  • ヘローフ号(信仰)
  • トラウ号(忠誠)
  • ブライデ・ボートスハップ号(吉兆)

果たして1598年6月24日、船団はロッテルダムから出港したのでした。

しかし航海は散々な結果となってしまいます。

トラウ号はポルトガル海軍、ブライデ・ボートスハップ号はスペイン海軍にそれぞれ拿捕されてしまいました。

へローフ号は船団からはぐれてしまったため航続を断念。オランダへと引き返して行きます。

2隻残ったホーぺ号とリーフデ号でしたが、太平洋を横断中にホーぺ号は沈没して海の藻屑となりました。

ちなみにウィリアムはリーフデ号に配置転換されていて助かっています。強運ですね。

しかしリーフデ号も赤痢や壊血病、寄港先で原住民の襲撃を受けるなど次々と死亡。ウィリアムの弟・トマスも殺されてしまいました。

こうして出港時は110名だった乗組員は、24名にまで減ってしまったのです。

日本に漂着したものの……。

家康と謁見するウィリアム・アダムスら(画像:Wikipedia)

かくして地獄の航路を生き延びたウィリアムたち。しかし日本に漂着しても、身の危険は続きます。

ウィリアムたちを保護した臼杵城主の太田一吉(おおた かずよし)は、すぐさま長崎奉行の寺沢広高(てらさわ ひろたか)に通報。

一行は捕らわれ、武器弾薬などを押収されてしまいました。

さぁ大変です。ウィリアムたちの処遇をどうするべきか、広高が大坂の豊臣秀頼にお伺いを立てている間、イエズス会の宣教師らは彼らを処刑するよう猛烈に訴えたそうです。

同じキリスト教徒であっても、異宗派の者は異教徒も同じなのでしょう。

しかしウィリアムたちの身柄は五大老の筆頭・徳川家康に引き取られました。とりあえずは助かるかも知れません。

家康の指示により、重体で身動きのとれない者を除いてウィリアムたちは大坂へ護送されます。

そして慶長5年(1600年)3月30日。ウィリアムたちは家康と引見したのでした。

イエズス会の宣教師らに聞いた前情報で、はじめは彼らを海賊だと思い込んでいた家康。しかしウィリアムたちの真摯かつ毅然たる態度に接して認識を改めます。

家康の旗本・三浦按針となる

ウィリアム・アダムス(画像:Wikipedia)

やがて獄中から釈放されたウィリアムたちは家康の本拠地である江戸に招かれ、家康の通訳や顧問として活躍しました。

しかしウィリアムは帰国を願っており、度々願い出たものの、それが叶うことはなかったのです。

その代わり、家康はウィリアムらに米や俸給を与えて慰留しました。

そしてウィリアムは家康の顧問役として西洋数学や幾何学、航海術などを伝授したそうです。

やがて江戸湾に係留していたリーフデ号が沈没。ウィリアムは家康から命じられ、慶長9年(1604年)に日本で初めてとなる洋式船舶を建造しました。

この船舶の排水量は80トン、更に大型船を建造するよう命じられ、今度は慶長12年(1607年)に120トンの大型船舶を建造します。

この功績をもって、家康はウィリアムを旗本として取り立てました。

名を三浦按針(みうら あんじん)と改めさせ、相模国逸見(神奈川県横須賀市)に250石の采地を与えます。

もはや帰国を諦めつつあったのか、あるいは現地妻と思ったのか、ウィリアム改め三浦按針は結婚。日本人女性との間に息子ジョゼフ、娘スザンナをさずかりました。

※日本人妻の名前はお雪(洗礼名マリア)と考えられてきましたが、実は創作だったようです。

ちなみに三浦の苗字は所領を与えられた三浦半島に由来し、按針は水先案内人という意味になります。

この名乗りは息子のジョゼフも襲名。二代目三浦按針となりました。

帰国のチャンスを見送った理由は?

18世紀の日本地図(画像:Wikipedia)

その後も家康の側近として活躍した三浦按針。

慶長18年(1613年)に英国東インド会社のクローブ号が日本へ来航した際、同船司令官のジョン・セーリスら一行を家康と引き合わせました。

家康は彼らに交易を許可する朱印状を与え、三浦按針は日英交流の橋渡しを務めたのです。

その功績が認められ、慶長19年(1614年)にクローブ号が帰国する際には三浦按針の帰国願いが日英両国から許可されました。

日本に漂着してから十数年。ようやく母国に帰れると喜んだ三浦按針の高揚感は、察するに余りあります。

しかしクローブ号の出航直前になって、三浦按針は乗船を拒否。一体どうしたのでしょうか。

やはり日本に愛着が湧いて、妻子を残して帰国できないと思った……訳ではなく、どうやらジョン・セーリスとの不仲が原因のようです。

何かと日本式を押しつけ、先輩風&恩人風を吹かせる三浦按針と、それに反発する若きセーリス。

もしかしたら「郷に入れば郷に従え」という三浦按針なりの気遣いだったのかも知れません。

特に日本人は、よそ者が自由気ままに振舞うのを嫌います。だから、かつて自分が受けた苦痛を、若者に味わわせたくなかったのでしょう。

しかしセーリスにしてみれば、日本に骨を埋ずめるでもなし、そんなに長居する気もありません。

さぞや三浦按針の忠告を鬱陶しがったことと思われます。

しかし、三浦按針にしても「せっかく母国へ帰れるのに、せいぜい数ヶ月の航海中くらい、司令官と反りが合わないのを我慢すればいいのに」と思った方もいるでしょう。

しかし日本国内ならばいざ知らず、一度海の上に出たら、船長の命令は絶対です。

人権意識なんてないようなもの。いつ「事故死」させられてしまうか、分かったもんじゃありません。

かくして三浦按針はウィリアムに戻ることなく、日本に骨を埋めることになります。

エピローグ

その後は母国である英国商館に勤務、家康から篤く信頼されていた三浦按針。しかしその転機は間もなく訪れます。

元和2年(1616年)に家康が世を去ると、二代将軍・徳川秀忠に疎まれるようになってしまいました。

江戸幕府が推進していた、いわゆる鎖国政策に反対したこともあり、三浦按針は冷遇されます。

そして元和6年(1620年)4月24日、三浦按針は平戸の地で世を去ったのでした。享年57歳(満55歳)。

以上、三浦按針ことウィリアム・アダムスの生涯を駆け足でたどってきました。

その数奇な運命は多くの作品によって彩られ、人々に彼の活躍を伝えています。

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