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幕末、京都で起きた三条制札事件…新選組に犯行を阻止された土佐藩士たちのエピソード

幕末維新
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古来「勝てば官軍」とはよく言ったもので、勝ち馬に乗った者は往々にしてその恩恵に与るものであり、その評価も実績以上に高くなりがちです。

時は幕末、明治維新に大きな貢献を果たした土佐藩ですが、中には「これが功績と言えるのだろうか」という人物も少なからず紛れ込んでいました。

今回は京都で発生した三条制札事件(さんじょうせいさつじけん)の犯人たちのエピソードを紹介したいと思います。

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失墜する幕府の権威

三条制札事件とは、幕府が京都の各所に立てた制札(禁令を示した看板)がたびたび引き抜かれたため、警護に当たった新選組がその犯人を検挙した一連の騒動を言います。

立てられた制札(イメージ)

元治元年(1864年)に勃発した長州藩の軍事クーデター「禁門の変」以降、幕府は長州藩を朝敵(朝廷に仇なす賊徒)とみなす制札を立てました。

【意訳】

一、このたび長州藩は畏れ多くもクーデターを起こして朝廷を脅かし、容易ならざる騒動となったが、無事に収まったので避難先から帰宅しなさい。
「京都を火の海にする」などという噂も流れたが、決してそのようなことにはならないので、それぞれ仕事に戻ってパニックに陥らないように。

一、かねてより長州藩は勤皇をアピールして人々を騙してきたが、朝廷に発砲した罪は明らかであり、幕府は長州藩を討伐するよう仰せつけられた。
これまで騙されていた者も悔い改めて、長州藩士が潜伏しているのを見つけたらすぐに通報するように。もし匿えば同罪とする。

「これで長州はおしまいだ……」

武家の棟梁として天下に号令する幕府を敵に回して勝ち目はない。誰もがそう思ったことでしょうが、明けて慶応元年(1865年)、幕府が長州征伐にまさかの大失敗。

西日本の諸藩を総動員して長州を完全包囲、10万対2~3千という圧倒的な兵力差だったにも関わらず、あれやこれやのグダグダによって撃退されてしまったのです。

「うわっ……実は幕府って、弱すぎ?」

奇跡的な勝利に勢いづく長州軍(イメージ)

この一件で反幕府勢力は調子づき、各地で嫌がらせを展開。京都の制札が引き抜かれたのも、その一環だったのでしょう。

「おのれ、ご公儀を侮りおって……」

事態を重く見た京都守護職・松平容保(まつだいら かたもり)は新選組(しんせんぐみ)に制札を警護し、不逞の者どもを捕縛するよう命じます。

「……御意にございまする」

新選組では特に被害の多かった三条大橋を中心に隊士を3ヶ所に配備、いざ事あれば3方向から犯行現場を包囲できる態勢を整えたのでした。

三条制札事件の顛末

一隊は原田左之助(はらだ さのすけ。十番隊組長)ら12名、もう一隊は大石鍬次郎(おおいし くわじろう。諸士調役兼監察)ら10名、そして新井忠雄(あらい ただお。撃剣師範)率いる12名と斥候に浅野薫(あさの かおる。副長助勤)ら2名。

賊徒を待ち構える新選組(イメージ)

総勢36名で厳戒態勢をしいていた慶応2年(1866年)9月12日、三条大橋の西詰に立てた制札を引き抜こうと土佐藩士ら8名が出没(※)しました。

安東鎌次(あんどう かまじ。正勝)
岡山禎六(おかやま ていろく)
沢田甚兵衛(さわだ じんべゑ)
中山謙太郎(なかやま けんたろう)
早川安太郎(はやかわ やすたろう)
藤崎吉五郎(ふじさき きちごろう。楯彦)
松島和助(まつしま わすけ)
宮川助五郎(みやがわ すけごろう。長春)

(※)史料によっては「通りがかりにたまたま見かけた制札に腹を立て、これを引き抜いて壊した」などとも言われています。

「来た!」

制札を監視していた斥候の2名は手分けして通報に走りますが、ここで浅野薫は怖気づいてしまいます。

(もし、斬り合いになったらどうしよう……)

賊徒の出没を通報すべきか否か……ためらっていたことで大石鍬次郎らの出動が遅れ、現場を完全包囲することが出来ずに土佐藩士5名を取り逃してしまったのでした。

この卑怯な振る舞いを咎められた浅野薫は新選組から追放され、沖田総司(おきた そうじ。一番隊組長)に斬られてしまうのですが、それはまた別の話。

「まずい、新選組だ……逃げるぞ!」

「……こっちは囲まれた!そっちは行けるか!」

「ここは拙者が食い止める、そなたらは先へ逃げろ!」

賊徒を追う新選組隊士(イメージ)

新選組に追われる土佐藩士の中から、安東鎌次と藤崎吉五郎、そして宮川助五郎が殿軍(しんがり)としてその場に踏みとどまります。

こと藤崎吉五郎は兄の藤崎八郎(はちろう。誠輝)が元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件に巻き込まれて死亡しており、新選組には(ほぼ逆恨みとは言え)怨みがありました。

しかし衆寡敵せず、善戦するも藤崎吉五郎は討死。宮川助五郎は捕縛され、安東鎌次は深手を負いながらも追手をまき、命からがら土佐藩邸の前まで逃げて来ました。

「あそこにいたぞ!ヤツは土佐の者だったか!」

あと一歩のところで見つかってしまった安東鎌次は、その場で自刃して果てました。土佐藩邸へ逃げ込めば新選組は手が出せなくなるものの、間違いなく土佐藩に迷惑がかかってしまいます。

時に慶応2年9月13日(夜のことだったので、日付が変わったのでしょう)、享年25歳の若さでした。

終わりに

捕縛された宮川助五郎は土佐に強制送還される途中に脱走して各地を潜伏、慶応4年(1868年)2月に恩赦が出て官軍に加わり、戊辰戦争で活躍。戦後間もなく亡くなりますが、明治31年(1898年)に従五位を追贈(叙位)されました。

箱館戦争の死闘。この中に助五郎もいたのだろうか(イメージ)

他の5名については記録がないため、恐らく格別の武功もなかったのでしょうが、討死した藤崎吉五郎も、自刃した安東鎌次と共に明治31年(1898年)に従五位を追贈されます。

しかし、戊辰戦争で軍功を上げた宮川助五郎はともかくとして、他の者たちについては、敵対していた幕府のものとは言え「公共器物の損壊を咎められて逃走・抵抗」しただけです。

いくら尊い命を落としたとは言って、同じことを「賊軍」とされた旧幕府方の者がしても、同じように評価はされなかったでしょう。

あくまで明治日本の新政府は薩長土肥の藩閥が徳川幕府を倒したことをもって正当性の根拠としており、日本国が一丸となって激動の帝国主義世界を生き延びていくには、まだ長い道のりが待っていたのでした。

※参考文献:
田尻佐 編『贈位諸賢伝 一』国友社、1927年7月
田尻佐 編『贈位諸賢伝 二』国友社、1927年7月
相川司『新選組隊士録』新紀元社、2011年12月
歴史群像編集部『全国版幕末維新人物事典』学習研究社、2010年3月

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