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【鎌倉殿の13人】北条義時の死後、執権の座をめぐる北条泰時と北条政村の争い「伊賀氏の変」を紹介【前編】

鎌倉時代
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時は貞応3年(1224年)6月13日、北条義時(ほうじょう よしとき)が波乱の生涯に幕を下ろしました。
葬儀は6月18日に執り行われましたが、その列に長男・北条泰時(やすとき)の姿はありません。承久の乱(承久3・1221年)以降、ずっと京都の守護に当たっていたためです。

父の死に目に会えなかった泰時。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより

つまり、承久3年(1221年)5月21日に鎌倉を出立したのが今生の別れとなってしまったのでした。

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次の後継者は誰だ?義時の葬儀で交錯する思惑

霽。戌尅。前奥州禪門葬送。以故右大將家法華堂東山上爲墳墓。葬礼事。被仰親職之處辞申。泰貞又稱不帶文書故障。仍知輔朝臣計申之。式部大夫。駿河守。陸奥四郎。同五郎。同六郎。并三浦駿河二郎。及宿老祠候人。少々着服供奉。其外御家人等參會成群。各傷嗟溺涙云々。

※『吾妻鏡』貞応3年(1224年)6月18日条

義時は源頼朝(みなもとの よりとも。故右大将家)が葬られた法華堂(現:頼朝公墓)の東に葬られ、葬儀は次男の北条朝時はじめ5人の息子たちが執り行いました。

次男・北条朝時(ともとき。式部大夫、母は前正室・姫の前)
三男・北条重時(しげとき。駿河守。母は姫の前)
四男・北条有時(ありとき。陸奥六郎。母は側室・伊佐朝政の娘)
五男・北条政村(まさむら。陸奥四郎。母は後正室・伊賀の方)
六男・北条実義(さねよし。陸奥五郎。母は伊賀の方)

※参考:義時の息子たちについて

みんな手を合わせながら、考えていたのは「義時の跡目を継ぐのは誰か」。

実績と年齢で見れば長男の泰時ですが、彼は側室(阿波局。※阿野全成に嫁いだ妹とは別女性)の子。
ということを考えると、まず四男の有時は後継者候補から除外されます(四男なのに後から生まれた政村たちよりも格下扱い≒六郎とされている)。

続いて次男・朝時と三男・重時はどうでしょうか。彼らの母親・姫の前は正室ですが比企一族の出身であり、建仁3年(1203年)に実家が滅ぼされたことで義時と離縁。その子供たちが北条の家督を継ぐことは考えにくいでしょう。

北条義時の五男・北条政村。義時が特に可愛がっていたという。

であれば、残る最有力候補は現在の正室・伊賀の方が産んだ五男の政村(と六男の実義)。

実質的に泰時と政村の一騎討ちとなる北条の家督争い、後世に言う「伊賀氏の変」が幕を開けるのでした。

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義時、尼御台・政子の支持を受ける

「父上!」

泰時が京都から戻ってきたのは6月26日。二七日(ふたなぬか。亡くなって14日目)の法要が執り行われた日のことです。

天晴。二七日御佛事被修之。大進僧都觀基爲唱導云々。今日未尅。武州自京都下着。先宿于由比邊給。明日可被移正家云々。去十三日飛脚。同十六日入洛之間。十七日丑尅出京云々。又相州〔時房。十九日出京〕并陸奥守義氏等同下着云々。

※『吾妻鏡』貞応3年(1224年)6月26日条

6月13日に発せられた飛脚が16日に到着、訃報に接した泰時は17日午前2:00ごろに京都を飛び出しました。

また、泰時と同じく京都を守護していた北条時房(ときふさ)も同日に戻ってきました。19日に出たというので、恐らく泰時に「後始末はいいから、先に(少しでも早く)行きな」と促してくれたのでしょう。優しいですね。

それで鎌倉への到着が同日になってしまったのは、泰時が道草を食っていた……とかではなく、何か道中でトラブルがあったのでしょう(それが何かは分かりませんが、通常であれば京都~鎌倉間が約7日の道程であることが分かります)。

翌6月27日、泰時は小町の西北にある鎌倉亭(執権居館)へ移りました。鎌倉幕府の第3代執権として、当然に自分が義時の跡を継ぐことを示したのです。

尼御台・政子。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより

一息ついた6月28日、泰時は時房と共に尼御台・政子(まさこ)を訪ね、「今後は相州(時房)殿が武州(泰時)殿を支え、鎌倉の政治を取り仕切るように」命じられました。

武州始被參二位殿御方。觸穢無御憚云々。相州。武州爲軍營御後見。可執行武家事之旨。有彼仰云々。而先々爲楚忽歟之由。被仰合前大膳大夫入道覺阿。々々申云。延及今日。猶可謂遲引。世之安危。人之可疑時也。可治定事者。早可有其沙汰云々。前奥州禪室卒去之後。世上巷説縱横也。武州者爲討亡弟等。出京都令下向之由。依有兼日風聞。四郎政村之邊物忩。伊賀式部丞光宗兄弟。以謂政村主外家。内々憤執權事。奥州後室〔伊賀守朝光女〕亦擧聟宰相中將實雅卿。立關東將軍。以子息政村。用御後見。可任武家成敗於光宗兄弟之由。潜思企。已成和談。有一同之輩等。于時人々所志相分云々。武州御方人々粗伺聞之。雖告申。武州稱爲不實歟之由。敢不驚騒給。剩要人之外不可參入之旨。被加制止之間。平三郎左衛門尉。尾藤左近將監。關左近大夫將監。安東左衛門尉。万年右馬允。南條七郎等計經廻。太寂莫云々。

※『吾妻鏡』貞応3年(1224年)6月28日条

「「ははあ……」」

こうして尼御台のお墨付きをもらった泰時ですが、やはり不安です。

「私のような若輩者に、執権など務まるのでしょうか。まだ早い気が……」

泰時が大江広元に相談したところ、広元は答えて言いました。

「いえいえ、むしろ遅すぎるくらいです。奥州(義時)殿が跡継ぎを決められぬまま亡くなったので、世の中が少し騒がしくなっています。ここは武州殿に執権を継いで頂かねばなりませぬ」

鎌倉の巷では泰時の帰還について「邪魔になる弟(特に政村たち)を攻め滅ぼすために違いない」と流言蜚語(デマ)が飛び交っています。

その一方で、母方の伊賀一族が一条実雅(いちじょう さねまさ。義時の娘婿)を鎌倉殿に擁立するとの情報も入っていました。

「そのような事実はありません」

話を聞いた泰時は断言した上で、一応の用心として平盛綱(たいらの もりつな)・尾藤景綱(びとう かげつな)。関実忠(せき さねただ)・安東左衛門尉(あんどう さゑもんのじょう)・万年右馬允(まんねん うまのじょう)・南条時員(なんじょう ときかず)ら信用できる者を集めておきます。

北条時氏。栗原信充筆

夜が明けて6月29日、泰時は自身の長男である北条時氏(ときうじ。武蔵太郎)と北条時盛(ときもり。時房の長男)に京都を守護させるべく上洛させました。

寅刻。掃部助時盛〔相州一男〕。武藏太郎時氏〔武州一男〕等上洛〔去廿七日出門〕。兩人共就世上巷説。雖稱可在鎌倉之由。相州。武州被相談云。世不靜之時者。京畿人意。尤以可疑。早可警衛洛中者。仍各首途。相州。當時於事不被背武州命云々。」今日。無六月秡。依觸穢也。天下諒闇之時不被行之由。及御沙汰云々。

※『吾妻鏡』貞応3年(1224年)6月29日条

「鎌倉に不穏な風説がある時は、京都で何が起こるか分からない。早急に向かうように」

「「ははあ」」

午前4:00ごろ、北条時氏と北条時盛は京都へ出発。なお、亡き父の死穢(しえ。死によるケガレ)があるため、夏越の祓(6月30日)は行わないよう取り決めたと言います。

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伊賀兄弟と三浦義村の密談

それからというもの、鎌倉の市中は何かと騒がしく、伊賀光宗(いが みつむね。伊賀の方の兄弟)らが駿河前司こと三浦義村(みうら よしむら)の館へしきりに訪ねていました。

鎌倉中物忩。光宗兄弟頻以往還于駿河前司義村許。是有相談事歟之由。人恠之。入夜。件兄弟群集于奥州御舊跡〔後室居住〕。不可變此事之旨。各及誓言。或女房伺聞之。雖不知密語之始。事躰不審之由。告申武州。々々敢無動搖之氣。彼兄弟等不可變之由。成契約。尤神妙之旨被仰云々。

※『吾妻鏡』貞応3年(1224年)7月5日条

三浦義村は北条政村の烏帽子親で、名前の村は義村が与えているなど深い誼があります。いざ泰時と対立した際、味方に引き込もうとしているのは明らかです。

三浦一族は相模国でも指折りの大豪族。本拠地も鎌倉に近いため、三浦を抑えた者が鎌倉を制すると言っても過言ではありません。

三浦を制する者が鎌倉を制する。果たして、義村はどっちの味方か。歌川豊国筆

「このことを、武州様へお知らせした方がいいと思いまして……」

伊賀兄弟と義村の密談を盗み聞きした女房(下女)が泰時に密告。しかし泰時はこれに動じることなく「伊賀兄弟が変節せぬよう誓い合うのは、神妙なことだ」と取り合いませんでした(少なくとも、表面的には)。

そんな7月17日、近国じゅうから御家人たちが鎌倉に集結し、今にも合戦が始まらんばかりの大騒ぎとなります。

晴。近國輩競集。於門々戸々卜居。今夕大物忩。子尅。二位家以女房駿河局計爲御共。潜渡御于駿河前司義村宅。義村殊敬口屈。二品仰云。就奥州卒去。武州下向之後。人成群。世不靜。陸奥四郎政村。并式部丞光宗等。頻出入義村之許。有密談事之由風聞。是何事哉。不得其意。若相度武州。欲獨歩歟。去承久逆乱之時。關東治運。雖爲天命。半在武州之功哉。凡奥州鎭數度烟塵戰。干伐令靜謐訖。継其跡。可爲關東棟梁者。武州也。無武州也。諸人爭久運哉。政村与義村。如親子。何無談合之疑乎。兩人無事之樣。須加諷諌者。義村申不知之由。二品猶不用。令扶持政村。可有濫世企否。可廻和平計否。早可申切之旨。重被仰。義村云。陸奥四郎全無逆心歟。光宗等者有用意事云々。尤可加禁制之由。及誓言之間。令還給云々。

※『吾妻鏡』貞応3年(1224年)7月17日条

この事態を重く見た政子は真夜中ごろ、女官の駿河局(するがのつぼね)を連れて義村邸をお忍びで訪問。義村を問い詰めました。

「……奥州(義時)が亡くなり、武州(泰時)が鎌倉へ戻ってこの方、世が物騒でなりません。あなたは陸奥四郎(政村)殿と式部丞(伊賀光宗)らと密談を繰り返していると聞きましたが、一体どういうことでしょうか。よもや武州殿に謀叛など企んではいますまいね」

「いや、あの……」

「よいですか。去んぬる承久の乱において、鎌倉の命運は天の定めるところとは申せ、天運を引き寄せたのは間違いなく武州殿の忠功によるもの。かつて奥州殿は幾度もの烟塵(えんじん。狼煙と戦塵≒戦さ)を鎮め、干戈(かんか。武器≒戦さ)を収めさせました。その跡をついで関東の執権として鎌倉殿をお支えすべきは武州殿以外におりませぬ」

「……はい」

「もし武州殿に何かあれば、また御家人たちが権力抗争に明け暮れる日々が戻ってくるでしょう。駿河(義村)殿と陸奥四郎殿は烏帽子の親子、いざ事あれば結託するのは目に見えています」

「左様なことは……」

流石策士の義村も、尼将軍を前にはしどろもどろ。政子はなおも追及を緩めません。

尼将軍の追及は続く。

「陸奥四郎殿をそそのかして世を乱すおつもりか、それとも武州殿をお支えして泰平の世を守るのか。今すぐこの場でハッキリ仰(おっしゃ)い!」

ここで義村は完全に降参。泰時に対する謀叛(政村の擁立)には一切協力しない旨を誓います。

「誤解です。陸奥四郎殿に謀叛の心などございませぬ。悪いのは伊賀兄弟、バカな事は多い留まるよう、それがしからよく言って聞かせましょう」

「駿河殿を信じましょう。それでは、お願いしましたよ」

言質をとった政子は、ひとまず帰って行ったのでした。

【後編へ続く】

※参考文献:

  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点『吾妻鏡』を読みなおす』NHK出版、2000年12月
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月

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