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源頼朝はバイリンガルだった?伊豆の流人時代に体得した生存戦略【鎌倉殿の13人】

平安時代
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源氏嫡流の御曹司として京都で生まれて14歳まで過ごし、伊豆国へと流されて20年間を過ごし、34歳で挙兵して53歳に亡くなるまで18年間を鎌倉の主として過ごした源頼朝(みなもとの よりとも)公

その遺業は周知のこととして「ところで頼朝公はどんな言葉を話していたんだろう?」ふとそんな疑問を抱いたのは、きっと筆者だけではない筈です。

「そりゃ京都で生まれ育った御曹司だから、お公家様とまでは言わないにせよ、上品な京言葉(×京都弁)をベースに話していただろう」

伝 源頼朝公肖像

「いやいや、いくら子供のころ京都で育ったからと言って、20年以上も東国で過ごしたのだから、べらんめえ口調とまでは言わないにせよ、素朴な東(あづま)言葉を使っていたのだろう」

まぁ大体このいずれかを想像すると思いますが、どうやら頼朝公は京言葉と東言葉をTPOによって巧みに使い分けるバイリンガルだったようです。

バイリンガルと言うと母国語と外国語(英語など)をイメージするかと思いますが、当時は同じ日本国内でも現代ほど統一感がなく、東日本と西日本では、まさに外国へ出かけるような感覚だったことでしょう。

そこで今回は、頼朝公のバイリンガルぶりを紹介したいと思います。

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平治の乱で「未知(兄たち)との遭遇」……度肝を抜かれた頼朝少年

頼朝公が誕生してから伊豆国へ流される原因となった平治の乱までの12年間は、恐らく京都から遠く出たことはなかったでしょう。

さて父・源義朝(よしとも)が兵を挙げた際、東国から頼朝公の異母兄である源義平(よしひら。悪源太)や源朝長(ともなが。松田冠者)らを呼び寄せます。

「父上(義朝)……右兵衛権佐(うひょうゑごんのすけ。頼朝の官職、ここでは一人称)が参上いたしました」

「……うむ」

そんな畏まった感じで対面しているところへ、東国育ちの兄たちがドカドカとやって来ました。

源悪源太義平。月岡芳年「新形三十六怪撰」より

「親爺!悪源太、参ったぞ!」

「同じく松田も着到じゃ!」

恐らく初めて出会う腹違いの兄たちは、その言葉遣いや身なり風体(ふうてい)から、京都育ちの頼朝少年にとっては何とも得体の知れない野蛮人に見え、さぞや面食らったことでしょう。

「おぅ手前(てめ)ぇら、都に来たら『左衛門少尉(さゑもんのしょうじょう。義平の官職)』と『中宮大進(ちゅうぐうのたいじょう。朝長の官職)』って名乗れっ言(つ)ってンだろうが!」

異母兄たちを前にして、いきなり「坂東人」の顔に豹変した父の姿に更に面食らった頼朝少年は、それこそ言葉も出ないか、あるいはちょっと洩らしてしまったかも知れません。

「るっせぇな親爺、俺ァ悪源太の方が気に入ってンだからよォ」

「悪(にく)らしいほど強いヤツ……俺もそんくらい呼ばれるよう、もっと暴れねぇとなぁ!」

(ひ、ひぃ……っ)

これから戦さをするとは聞いており、それなりに覚悟は決めたつもりでいたものの、もしかしたら自分は何だか取り返しのつかない場所へ投じられてしまうのではなかろうか……。

歌川国芳「本朝武優鏡 源頼朝」

まだあどけなさを残した頼朝少年は、まだ見ぬ敵よりも今この場で自分を取り囲んでいる味方の方がよほど恐ろしかったことでしょう。

「……お、このガキが噂のボン佐(ボンボンの右兵衛権佐)か。このツラを見ると此度が初陣か。しっかりやれよ!」

「ひっ!」

「おい兄者、あンまり恐がらすなよ。可哀想にブルってンじゃねぇか……おぅボン佐、大丈夫だぞ。敵が人間(ヒト)だと思うから怖ぇのさ。鶏の血抜きでもするつもりでサクッと殺(や)りゃあ、すぐに慣れるからよ!」

「は、はひ……っ」

朝長なりの優しさなんでしょうが、鶏なんて〆たことも捌いたこともありません……とは言えず、さっそく戦さ支度にとりかかる父や兄たちを呆然と頼朝少年は見送るばかりでした。

……みたいなやりとりが実際にあったかはともかくとして、頼朝少年が東国育ちの異母兄たちに度肝を抜かれたことは間違いなさそうです。

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配流先の伊豆国で……頼朝公の生存戦略

そして平治の乱に敗れ去った源氏一派。あんなに荒々しく、頼もしかった父や兄たちは命を落とし、死一等を減じられた頼朝少年は、トボトボと伊豆国へと向かいます。

「あぁ……伊豆国は兄たちがいた相模国のすぐ隣と言うから、さぞ野蛮な土地なのだろうなぁ……殺されないかなぁ、心配だなぁ……」

とりあえず命こそ助かったものの、配流先では生活が保障されている訳ではありません。後に乳母の比企尼(ひきのあま)をはじめとする有形無形の支援によって快適な流人ライフを送ることになる頼朝公ですが、この時点ではそんなこと知る由もありません。

初陣では敗れながらも武勇を奮った頼朝公。月岡芳年「芳年武者无類 左兵衛佐源頼朝」

「とりあえず『郷に入っては郷に従え』で、東国人たちに早くなじめるように、カタチから入っていこう」

いつの時代も、都会出身のお坊ちゃまが辺鄙なド田舎にやって来て、都会人風を吹かせるのは、そこで生きて行く上で大きな障害となります。

ましてや今は後ろ盾のない流罪人ですから、地域コミュニティから反感を買い、孤立するのは死に直結しかねないハイリスク&ノーリターンの愚行。早急に改めねばなりません。

それでいて、露骨に媚びを売るような態度では源氏の嫡流(自称だけど)として家名を穢すばかりか、周囲から侮られて卑屈な立場を余儀なくされてしまいます。

地域コミュニティに溶け込みつつ、それでいて「我は源氏の嫡流なり」というある種の特別感を演出・維持する匙加減こそが、頼朝公のとった生存戦略でした。

最初は現代でもよく見かけるような「エセ関西弁」「にわか九州弁」だったでしょうが、それでも言葉は土地の文化を示すもの。

みんなから笑われながらも一生懸命に土地の言葉を使おうと心がける頼朝公の姿に、土地の文化を尊重する誠実さを見出し、次第に心を開く者が増えて行ったようです。

頼朝公(右奥)の気晴らしに開かれた相撲大会。結構人気者だった模様。鶴岡八幡宮蔵「源頼朝一代記絵巻」より

「京都から来たと言うから、東国なぞバカにしているものだと思っていたが、あのボン佐は違ったな」

「最近は口も慣れて来たようだし、話も面白いからまた遊びに誘ってやろうぜ!」

後に御家人たちの心をつかみ、ある種の人誑(たら)しであった頼朝公の資質は、伊豆国で生き延びる知恵として、自然と培われていったのかも知れませんね。

そんな頼朝公はバランス感覚の絶妙さが強みだったようで、普通は田舎暮らしを20年も続けていれば、すっかり土地の習慣や価値観が染みついて、田舎者まる出しになってしまいそうなものですが、さすがは「源氏の嫡流(自称だけど)」、一味違うところを見せつけます。

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皮肉屋たちも大絶賛!失われなかった頼朝公の資質

さて、時は建久元年(1190年)11月、配流から30年の歳月を経て頼朝公は京都へのカムバック(上洛)を果たします。

内裏や院御所(上皇陛下御用邸)へ参上してから、11月9日に摂政の九条兼実(くじょう かねざね。藤原兼実)とも会見しました。

一癖ありそうな九条兼実(画像:Wikipedia)

この兼実、その日記『玉葉(ぎょくよう)』に書かれている限りでは大層な皮肉屋として知られていますが、頼朝公との会話について「太甚深也(はなはだじんしんなり。意訳:とっても深イイ話だった)」と高く評価しています。

また、兼実の弟で、兄に負けず劣らずの皮肉屋であった大僧正慈円(だいそうじょう じえん)もその日記『愚管抄(ぐかんしょう)』で頼朝公の発言や立ち居振る舞いについて賞賛。

他人に見られることを前提としないため、本音で書かれがちな日記でわざわざ褒めているということは、よほど掛け値なしだったのでしょう。

言うまでもなく、事前に礼儀作法の指南役がつき、謁見や会見について立付(たてつけ。予行演習)は行われたでしょうが、それでも付け焼刃ではどうしてもボロが出てしまいます。そうなれば公家たちはこぞって頼朝公の陰口を叩き、それが記録に残された筈ですが、そうした形跡は史料に見られません。

生粋の京都人で皮肉屋の兼実と慈円が本音で評価したということは、頼朝公には朝廷貴族として十二分に通用するだけの資質が備わっていたことの証左と言えるでしょう。

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終わりに

永年、源氏の棟梁として坂東の荒武者たちに君臨し、深く交わっていながら、やんごとなき貴族としての資質を失うことなく保ち続けた頼朝公。そのスタイルは相手や状況に応じて京言葉と東言葉を使い分ける巧みさに表れていたようです。

御家人の一人ひとりを深く愛し、胸襟を開く親しみやすさの一方で、何人たりとも近づき難い威厳を兼ね備えていたバイリンガルぶりこそ、頼朝公のカリスマを生み出す源泉であり、鎌倉に幕府を草創して武士の世を切り拓く原動力となったのかも知れません。

令和4年(2022年)1月9日(日)から放送開始予定のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で大泉洋さんの演じる頼朝公は、こうした絶妙な魅力が盛り込まれているものと楽しみにしています。

※参考文献:

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