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【鎌倉殿の13人】北条義時の死後、執権の座をめぐる北条泰時と北条政村の争い「伊賀氏の変」を紹介【後編】

鎌倉時代
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謀叛?何のことですか?政村をかばう泰時

明けて7月18日、義村はさっそく泰時に面会して敵意のない旨を申し出ます。

晴。駿河前司義村謁申武州云。故大夫殿御時。義村抽微忠之間。爲被表御懇志。四郎主御元服之時。以義村被用加冠役訖。以愚息泰村男爲御猶子。思其芳恩。貴殿与四郎主。就兩所御事。爭存好悪哉。只所庶幾者。世之安平也。光宗日者聊有計畧事歟。義村盡諷詞之間。漸歸伏畢者。武州不喜不驚。下官爲政村更不挿害心。依何事可存阿黨哉之旨。返答給云々。

※『吾妻鏡』貞応3年(1224年)7月18日条

「かつて故大夫(こたいふ。亡き義時)殿はそれがしの忠義に報いられるため、四郎主(政村)ご元服に際して加冠(かかん。成人の証しである烏帽子を被せる)役にご指名下さいました。さらには我が愚息の次郎(三浦泰村)を大夫殿のご猶子(ゆうし。相続権のない養子待遇)にして下さったのです。この恩義を想うと、いざ武州殿と四郎主が争われた場合にどっちにつこうか悩んでしまいました。ただし四郎主にそんな野心はございませぬ。伊賀兄弟が四郎主を唆そうと企んでいたのを、何とかそれがしが説得した次第にございます」

まぁ要するに「自分も政村も逆らうつもりはない。悪いのは伊賀兄弟だけど、それも説得したから大丈夫」という弁明でした。しかし泰時は「ふーん」とばかりそっけない反応。

悠然と構える北条泰時(イメージ)歌川貞秀『英雄百首』より

「下官(げかん。私)は四郎殿が謀叛を企んでいるなんて微塵も思っていませんし、私もまったく敵意など持っていません。まったく誰が謀叛なんて言い出したんでしょうね」

果たしてこれが本心なのか、あるいはとぼけているのか……(こいつには逆らわない方がいい)義村も肝を冷やしたことでしょう。

月が明けて閏7月1日。政子は若君・三寅(みとら。後の藤原頼経)を連れて泰時の館に移りました。

晴。若君。并二位家御座武州御亭。連々遣御使於義村之許。被仰可鎭世上濫吹之由上。驚去夜騒動。招寄義村。被仰含云。吾今抱若君。与相州。武州等。在一所。義村不可各別。同可候此所者。義村不能辞申云々。其外。召壹岐入道。出羽守。小山判官。結城左衛門尉已下宿老。以相州被觸仰云。上幼稚之間。下謀逆難禁。吾憖以活老命。太雖無由。各盍存故將軍記念儀哉。然者隨命於成一揆思者。有何者蜂起乎云々。

※『吾妻鏡』貞応3年(1224年)閏7月1日条

「昨夜(6月30日)はたいへん物騒でしたから、平六(義村)殿もここで鎌倉殿をお守りしなさい」

呼びつけられた義村は辞退することもままなりません。政村・伊賀派と通じている義村がここにいれば、とりあえず泰時たちは安全です。

それから壱岐入道こと葛西清重(かさい きよしげ)・中条家長(ちゅうじょう いえなが)・小山朝政(演:中村敦)・結城朝光(演:髙橋侃)ら古参の御家人たちを呼んで言いました。

御家人たちに睨みを利かせる政子(イメージ)菊池容斎『前賢故実』より

「若君が幼いゆえ、ならず者が好き勝手しようと企んでいます。しかしちょうど私が長生きしているので僭越ながらお守り申し上げ、亡き将軍家(頼朝)の願いを果たそうとしているのです。皆さんと心一つに忠義を尽くせば、何を恐れることがありましょうか」

まさか裏切り者はおるまいな?……さすが歴戦の勇士たちも、尼将軍の眼光にひれ伏さざるを得なかったでしょう。

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未然に防がれた謀叛、伊賀の方と伊賀兄弟の流罪が決定

こうして有力御家人たちに釘を刺した政子は、閏7月3日に御前会議を開きます。時房と大江広元(演:栗原英雄)も出席しました。

晴。於二品御前。世上事及御沙汰。相州被參。又前大膳大夫入道覺阿扶老病應召。關左近大夫將監實忠注記録云々。光宗等令宰相中將實雅卿。欲立關東將軍。其奸謀已顯露訖。但以卿相以上。無左右難處罪科。進其身於京都可伺奏罪名事。至奥州後室。并光宗等者。可爲流刑。其外事。縱雖有与同之疑。不能罪科由云々。

※『吾妻鏡』貞応3年(1224年)閏7月3日条

「此度、伊賀の者らが宰相中将(さいしょうのちゅうじょう。一条実雅)殿を鎌倉殿に祭り上げようと企んだこと、既に明らかである!」

ただし、実雅は公卿(くぎょう。三位以上の最上級貴族)であるから鎌倉で勝手に裁く訳にもいかず、京都へお送りして判断を仰ぐことになります。

伊賀の方と伊賀兄弟(伊賀光宗・伊賀朝行・伊賀光重)についてはそれぞれ流罪とすることを決定。他の者については一切不問としました。

京都へ送られる実雅(イメージ)

果たして一条実雅は閏7月23日に京都へと送られ、伊賀光宗は政所執事職(まんどころしつじしき)を解かれた上に所領52カ所を没収されました。

このまま粛清されるのだろうとしばし鎌倉じゅうが騒然としていたものの、そのようなことも起きないまま首謀者たちは8月29日、それぞれ流されていきます。

陰。前奥州後室禪尼。依二位家仰。下向伊豆國北條郡。可籠居彼所云々。有其科之故也。伊賀式部丞光宗配流信濃國。舎弟四郎左衛門尉朝行。同六郎右衛門尉光重等。爲相摸掃部助。武藏太郎預。自京都直可配流鎭西之旨。被仰遣。此兩人。扈從相公羽林上洛之後。未歸參云々。

※『吾妻鏡』貞応3年(1224年)8月29日条

伊賀の方……伊豆国北条郡(現:静岡県伊豆の国市)へ
伊賀光宗……信濃国(現:長野県)へ
伊賀朝行……鎮西(現:九州)へ
伊賀光重……同じく
※朝行と光重については京都にいたので、そのまま現地へ

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執権となったからこそ、公平に

かくして謀叛は未然に防がれ、泰時は誰もが認める第3代執権となりました。

霽。故奥州禪室御遺跡庄園。御配分于男女賢息之注文。武州自二品賜之。廻覽方々。各々有所存者。可被申子細。不然者。可申成御下文之旨被相觸。皆歡喜之上。曾無異儀歟。此事。武州下向最前。内々支配之。潜披覽二品之處。御覽畢之後。仰曰。大概神妙歟。但嫡子分頗不足。何樣事哉者。武州被申云。奉執權之身。於領所等事。爭強有競望哉。只可省舎弟等之由存之者。二品頻降御感涙云々。仍今日爲彼御計之由。及披露云々。又故前奥州禪室者。存日京官外國共被避任之間。就常儀。偏雖稱前奥州。於没後今者。可奉号右京權大夫之旨。被定下云々。」子刻。三浦駿河前司義村西御門家燒亡。不及他所。此間下方聊物忩云々。

※『吾妻鏡』貞応3年(1224年)9月5日条

「それでは、父上の遺領や遺産をみんなで分けようではないか」

泰時は兄弟の誰に対しても公平な配分に努め、みんなこれを喜んだと言います。ただ、あまりに公平過ぎるために泰時の取り分が一族の棟梁にしてはちょっと少なすぎるのではないでしょうか。

政子が心配して泰時に訊いたところ、その答えはいつも通りの明快さでした。

「執権という立場についたのですから、たとえ一族身内のことであっても公正であるべきです。所領を多くとろうなどと私欲を見せず、兄弟みんな公平に分配することで、世の手本となりましょう」

これを聞いた政子は涙を流して感激したということです。

炎上する三浦邸(イメージ)

一方、真夜中になって西御門にある三浦義村の館が炎上しました。不幸中の幸いで延焼は免れたものの、これは伊賀一族の残党による(政村・伊賀兄弟を裏切ったことに対する)報復だったのでしょうか。

「やはり『三浦の犬は友をも食らう』わい!」

月日が流れて10月10日、京都で取り調べを受けていた一条実雅は越前国(現:福井県)への配流が決定。10月29日に出発、同じく京都にいた伊賀朝行・伊賀光重らも11月9日に鎮西へと流されていったのでした。

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エピローグ

そして12月24日。伊豆北条へ流されていた伊賀の方が危篤との報せが鎌倉に届きます。

晴。伊豆國北條飛脚到來。右京兆後室禪尼。去十二日以後病惱。自昨日巳刻及危急之由申之。

※『吾妻鏡』元仁元年(1224年。より改元)12月24日条

12月12日からしばらく具合が悪かったと言いますが、この記事を最後に姿を消した伊賀の方。恐らくそのまま亡くなったものと考えられます。

ただし政村については一切不問とされ、また流された伊賀兄弟についてもほどなく許されて復帰しました。

これは泰時の意向によるものとされ、かつて繰り広げられた御家人たちの権力抗争を終わらせたい意図によるもの。

御家人たちの権力抗争に終止符を打つため、伊賀兄弟に寛大な態度をとった泰時(イメージ)

「かつて承久の乱に際して、亡き大夫尉(伊賀光季)殿が命を棄てて鎌倉の楯となってくれたからこそ、鎌倉の勝利があると言っても過言ではない。なのにその遺族や子孫たちが惨めに滅び去ってしまったら、今後鎌倉に何かあった時、一体誰が守ってくれるのだろうか」

泰時の説得によって伊賀兄弟らは罪を赦され、後に幕政への復帰を果たしました。

亡き父・義時たちが繰り広げた政治抗争・粛清劇に終止符を打った泰時。かくして仁治3年(1242年)に60歳で亡くなるまで、鎌倉には束の間の平穏(特に大きな動乱もない時代)が訪れたということです。

【完】

※参考文献:

  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点『吾妻鏡』を読みなおす』NHK出版、2000年12月
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月

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