源頼朝(みなもとの よりとも)の側近として活躍した結城朝光(ゆうき ともみつ)。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では頼朝が死んで後半になってからの登場ですが、生前の頼朝とは堅い主従の絆(乳兄弟にして烏帽子親子の関係)で結ばれていました。
大河ドラマでは高橋侃さんが演じる朝光の生涯、今回はその後編となります。
前編から読まれる方はコチラ:
梶原景時との最終決戦!66人が署名した弾劾状を突きつける
さて、頼朝の側近として大いに活躍した朝光。頼朝の死後も嫡男・源頼家(よりいえ)に仕えたものの、その暴君ぶりを嘆いてつい愚痴を漏らしてしまいます。
……朝光談于列座之衆云。吾聞。忠臣不事二君云々。殊蒙幕下厚恩也。遷化之刻。有遺言之間。不令出家遁世之條。後悔非一。且今見世上。如踏薄氷云々。朝光。右大將軍御時無双近仕也。懷舊之至。遮而在人々推察。聞者拭悲涙云々。
【意訳】「古来『忠臣は二君に仕えず』と言います。亡き頼朝公には厚き御恩をこうむっており、そのご遺言とは言え、頼朝公が亡くなった時に出家遁世しなかったことが悔やまれてなりません。こと近ごろの薄氷を踏むような世相を見ると……」
※『吾妻鏡』正治元年(1199年)10月25日条
朝光は生前の頼朝に誰よりも忠義篤く仕えていたのを知っている者たちは、その胸中を察して誰もが涙にくれるのでした。
こんなことなら、あのタイミングで出家してしまえばよかった……他の御家人たちも「あるある故」に泣いたのでしょう。
が、これを耳ざとく聞きつけたのが梶原景時(かじわら かげとき)。かつて畠山重忠(はたけやま しげただ)の件で口答えし、東大寺再建供養の件では恥をかかされてしまった怨みか、ここぞとばかりに朝光を「謀反の疑いあり」と讒訴するのです。
「七郎殿、早うお逃げ下され!」
明日にも粛清されるとの情報を朝光にリークしたのは阿波局(あわのつぼね)。北条時政(ほうじょう ときまさ)の娘で阿野全成(あの ぜんじょう)の妻、大河ドラマで言うところの実衣(演:宮澤エマ)です。
さて、どうしたものか……ここで逃げ出すのは簡単ですが、謀叛人の汚名を着せられてしまうのは間違いありません。いっときの命を惜しんだところで、どこまで逃げ切れるか、たかが知れています。
そこで善後策を講じるべく、朝光は日ごろ断金の朋友(金属をも断ち切るほどの絆で結ばれた友)と恃む三浦義村(みうら よしむら)に相談しました。
「事ここに至っては、内々に処理するよりもむしろ事を大きくした方が手も出しにくくなる。あの梶原が讒訴によって命を落とした者は数知れず、ここは長老たちに相談しよう」
さっそく和田義盛(わだ よしもり)や安達盛長(あだち もりなが)入道らに相談し、彼らは中原仲業(なかはらの なかなり)に景時の弾劾状を作らせます。
「一人でも多くの署名を連ね、鎌倉殿に訴えようではないか!」
果たして弾劾状に名前を連ねたのは以下の通り。
- 千葉介常胤(ちばのすけ つねたね)
- 三浦介義澄(みうらのすけ よしずみ)
- 千葉太郎胤正(ちば たろうたねまさ)
- 三浦兵衛尉義村(みうら ひょうゑのじょうよしむら)
- 畠山次郎重忠(はたけやま じろうしげただ)
- 小山左衛門尉朝政(おやま さゑもんのじょうともまさ)
- 同じく七郎朝光
- 足立左衛門尉遠元(あだち さゑもんのじょうとおもと)
- 和田左衛門尉義盛(わだ さゑもんのじょうよしもり)
- 同じく兵衛尉常盛(ひょうゑのじょうつねもり)
- 比企右衛門尉能員(ひき うゑもんのじょうよしかず)
- 所右衛門尉朝光(ところ うゑもんのじょうともみつ)
- 民部丞行光(みんぶのじょうゆきみつ。二階堂行光)
- 葛西兵衛尉清重(かさい ひょうゑのじょうきよしげ)
- 八田左衛門尉知重(はった さゑもんのじょうともしげ)
- 波多野小次郎忠綱(はたの こじろうただつな)
- 大井次郎實久(おおい じろうさねひさ)
- 若狭兵衛尉忠季(わかさ ひょうゑのじょうただすえ)
- 渋谷次郎高重(しぶや じろうたかしげ)
- 山内刑部丞経俊(やまのうち ぎょうぶのじょうつねとし)
- 宇都宮弥三郎頼綱(うつのみや やさぶろうよりつな)
- 榛谷四郎重朝(はんがや しろうしげとも)
- 安達藤九郎盛長入道(あだち とうくろうもりながにゅうどう)
- 佐々木兵衛尉盛綱入道(ささき ひょうゑのじょうもりつなにゅうどう)
- 稲毛三郎重成入道(いなげ さぶろうしげなりにゅうどう)
- 安達藤九郎景盛(あだち とうくろうかげもり)
- 岡崎四郎義実入道(おかざき しろうよしざねにゅうどう)
- 土屋次郎義清(つちや じろうよしきよ)
- 東平太重胤(とう へいたしげたね)
- 土肥先次郎惟光(どひ せんじろうこれみつ)
- 河野四郎通信(こうの しろうみちのぶ)
- 曽我小太郎祐綱(そが こたろうすけつな)
- 二宮四郎(にのみや しろう)
- 長江四郎明義(ながえ しろうあきよし)
- 諸二郎季綱(もろ じろうすえつな)
- 天野民部丞遠景入道(あまの みんぶのじょうとおかげにゅうどう)
- 工藤小次郎行光(くどう こじろうゆきみつ)
- 中原右京進仲業(なかはら うきょうのしんなかなり)
……など合計66名に上りました。これには頼家も驚いたのか、今までさんざん利用してきたのに掌を返して景時を見捨てます。
後ろ盾を失った景時は間もなく失脚、翌正治2年(1200年)1月20日に滅ぼされてしまったのでした。
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承久の乱、それ以降も幕府の重鎮として活躍
その後も頼家・源実朝(さねとも。頼家の弟で第3代鎌倉将軍)に仕えた朝光。
承久3年(1221年)に勃発した後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)との武力衝突「承久の乱」では東山道から攻め上って、武功を立てます。
寛喜元年(1229年)には上野介に任じられ、嘉禎元年(1235年)には評定衆(ひょうじょうしゅう)の一人として鎌倉幕政に重きをなしました。
晩年には出家して日阿(にちあ)と号し、第一線から退いたものの、挙兵以来の長老として影響力を保ち続けたと言います。
宝治元年(1247年)に三浦一族が執権北条氏に滅ぼされると(宝治合戦)、執権・北条時頼(ほうじょう ときより。第5代)の前を憚らず
「あまつさえ日阿、鎌倉にあらせしむにおいては、若狭前司たやすく誅伐の耻に遇うべからざる」
……剩日阿於令在鎌倉者。若狹前司輙不可遇誅伐耻……
【意訳】わしが鎌倉におったら、若狭前司(元若狭守。義村の子・三浦泰村)をたやすく討たせるようなことはせなんだのに……
※『吾妻鏡』宝治元年(1247年)6月29日条
その泰村を討った時頼の前で言うセリフではありません。しかし、朝光改め日阿にはそれだけの実力がありました。戦うのはもちろんのこと、戦さを防ぐ交渉においても。
また、その翌年にはこんなエピソードもあります。
宝治2年(1248年)閏2月28日、足利政義(あしかが まさよし。正義、足利義氏)からこんな書状が届きました。
「何じゃ、この宛書は!」
書面には「結城上野入道殿(ゆうきこうづけにゅうどうどの)へ、足利政所(あしかがのまんどころ)より」とあります。
政所とは「政所より出した書状」すなわち源氏の門葉(もんよう。一族)が出したという意味。足利氏は源氏であるから足利政所と書くのはいいのですが、問題は「結城上野入道殿」の方です。
「我れはかつて、亡き頼朝公より御門葉としてお認めいただいた。よって宛書は『結城政所』とすべきである!」
そこで意趣返しとして返書に「足利左馬頭入道殿(あしかがさまのかみにゅうどうどの)へ、結城政所より」と書いてやりました。
当然、侮辱された政義は怒り狂って訴訟を起こします。朝光はかつて頼朝が花押を書いた証文(寝所警護メンバーのリスト)を持参。自分が「門葉と認められたことのお墨付き」をドヤ顔で見せたのです。
結局、訴訟は朝光が勝利。今後は互いに尊重し合おうということで和解したのでした。
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終わりに
そして建長6年(1254年)2月24日、87歳で天寿を全うしました。朝光の戒名は称名寺殿日阿弥陀仏、茨城県結城市の称名寺に眠っています。
絶えず頼朝に寄り添い続け、その生き証人として一目置かれ続けた文武両道の名将は、人々から武士の鑑として尊敬を集めたことでしょう。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では頼朝死後からの登場ですが、是非とも生前から登場させて欲しかったところです。
(でないと、その魅力や凄さが半減してしまうのですが、まぁ諸々の都合から仕方ありませんね)
高橋侃さんが演じる結城朝光はどのような活躍を魅せてくれるのでしょうか。今から楽しみです!
【完】
※参考文献:
- 七宮ケイ三(さんずいに幸)『下野 小山 結城一族』新人物往来社、2005年11月
- 野口実『東国武士と京都』同成社、2015年10月
- 松本一夫『下野中世史の世界』岩田書店、2010年5月
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