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承久の乱はなぜ起こったか?実朝暗殺から後鳥羽上皇の挙兵まで【鎌倉殿の13人】

鎌倉時代
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建保7年(1219年)1月27日、鶴岡八幡宮寺にて鎌倉殿・源実朝(演:柿澤勇人)が甥の公暁(演:寛一郎)に暗殺されてしまいました。

ご存じの通り、実朝には子供がいなかったため、次期鎌倉殿は空位のまま。京都から後鳥羽上皇(演:尾上松也)の皇子を迎える話もありましたが、まだ決定はしていません。

こうなったら一日も早くお越しいただかねば、坂東は大混乱に陥ってしまいます。

かくして鎌倉と朝廷の駆け引きが激しさを増していくのでした。

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皇子の鎌倉下向をチラつかせつつ、難題を突きつける後鳥羽上皇

信濃前司行光上洛。是六條宮。冷泉宮兩所之間。爲關關(東)將軍可令下向御之由。禪定二位家令申給之使節也。宿老御家人又捧連署奏状。望此事云云。

※『吾妻鏡』建保7年(1219年)2月13日条

2月13日、尼御台・政子(演:小池栄子。禪定二位)の命によって二階堂行光(にかいどう ゆきみつ。二階堂行政の子)が京都へ上洛していきました。

「六条宮(ろくじょうのみや。雅成親王)か冷泉宮(れいぜいのみや。頼仁親王)のいずれかを鎌倉殿(関東将軍)にお迎えするよう、お願いするのです」

卯剋。伊賀太郎左衛門尉光季爲京都警固上洛……。

※『吾妻鏡』建保7年(1219年)2月14日条

続く2月14日、伊賀光季(いが みつすえ。義時後室・伊賀の方=“のえ”の兄弟)が京都を警護するため上洛していきました。

近ごろ鎌倉殿の急死にともなう混乱があったためですが、同時に「交渉に圧力をかける」狙いもあったことでしょう。

武藏守親廣入道爲京都守護上洛。

※『吾妻鏡』建保7年(1219年)2月29日条

2月29日には大江親広(おおえ ちかひろ。大江広元の子)も京都守護として上洛。この間(2月15日~23日)に駿河国で阿野時元(演:森優作)が「自分も源氏の血を引いているから」と鎌倉殿の地位を狙って挙兵、武運つたなく鎮圧されます(ここでは割愛)。

信濃前司行光使者參着。彼宮御下向事。今月一日達天聽。於仙洞有其沙汰。兩所中一所。必可令下向給。但非當時事之由。同四日被仰下。此上可歸參歟之由申之云々。

※『吾妻鏡』建保7年(1219年)閏2月12日条

月をまたいで閏2月、二階堂行光の使者が鎌倉へ戻ってきました。上皇陛下の仰せには

「よかろう。両宮のいずれかを差し遣わそう。ただし、今ではない」

とのこと。今でなければいつなのだ……目の前に人参をぶら下げられた鎌倉当局は、苛立ちを募らせます。

内藏頭忠綱朝臣爲上皇御使下向。

※『吾妻鏡』建保7年(1219年)3月8日条

そんな中、朝廷からの使者として藤原忠綱(ふじわら ただつな)が鎌倉へやって来ました。

仙洞御使忠綱朝臣參禪定二品御亭〔右府御舊跡〕。右府薨御事。叡慮殊御歎息之由。依被仰下也。次謁申于右京兆。是攝津國長江倉橋兩庄地頭職可被改補事已下 院宣條々也。

※『吾妻鏡』建保7年(1219年)3月9日条

いったい何の御用かしら……政子が応対したところ、実朝急死のお悔やみに加えて執権・北条義時(演:小栗旬。右京兆)に院宣を伝えます。

「摂津国長江、ならびに倉橋(いずれも現:大阪府豊中市か)。この両荘園につき地頭を改補(かいぶ。更迭)せよ」

改補とは改めて補任することを言いますが、要するに「今の地頭をクビにせよ」と言っているのです

そして、ここの地頭は義時でした。

院宣を伝えた藤原忠綱(イメージ)

「以上、申し伝えましたぞ。早々に回答せよ」

「ははあ。検討熟慮の上、可及的速やかにご回答申し上げまする……」

今曉。御使忠綱朝臣歸洛。申刻。伊賀太郎左衛門尉光季飛脚參着。去月晦日江州有謀叛輩之由。風聞之間。自今月一日至同四日。雖搜求無其實。但有疑貽。一兩輩生虜。是刑部僧正長賢一族之由申之。

※『吾妻鏡』建保7年(1219年)3月11日条

鎌倉殿の件(そして地頭の件も)どうぞよしなに……接待を受けた(であろう)忠綱が京都へ帰洛していったのと入れ代わりに、京都から伊賀光季の使者が鎌倉へ来ました。

「先月(閏2月)1日に近江国で謀叛の噂があったため現地へ派兵・捜索しましたが、特にそのようなことはありませんでした。ただし、挙動不審な者がいたので捕らえました。取り調べたところ、刑部僧正長賢(ぎょうぶのそうじょう ちょうけん)の一族とのことです」

刑部僧正長賢と言えば、後鳥羽上皇の御持僧(ごじそう。お抱え僧侶)。今回の件は、裏で上皇陛下が糸を引いているのでしょう。

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時房、精兵一千騎を率いて上洛

右京兆。相州。駿州。前大膳大夫入道參會于二品御亭。以忠綱朝臣被仰下條々。追可上啓之由被申御返事畢。急速無左右者。定背天氣歟之由。有評議云云。

※『吾妻鏡』建保7年(1219年)3月12日条

「これは困ったことになった……」

義時は北条時房(演:瀬戸康史。相州)・北条泰時(演:坂口健太郎。駿州)・大江広元(演:栗原英雄。前大膳大夫入道)は善後策を協議すべく、政子の館へ集まりました。

「地頭改補の件、回答せねば上皇陛下のご機嫌(天気)を損ねてしまうが……」

これを認めてしまうと、鎌倉殿の人事に朝廷が介入する前例となってしまうでしょう。そうなれば御家人たちは、鎌倉殿よりも朝廷の顔色を窺うようになるのが目に見えています。

「……よし。相州(時房)」

「は」

相州爲二位家御使上洛。扈從侍千騎云云。是今度以忠綱朝臣被仰下條々事勅答并將軍御下向事等也。

※『吾妻鏡』建保7年(1219年)3月15日条

義時と政子は時房に精鋭一千騎を預け、回答そして親王殿下の鎌倉下向を要請する使者として上洛させました。これは明らかに脅しです。

……是幕下將軍時募勳功賞定補之輩。無指雜怠而難改由申之。仍逆鱗甚故也云々……

※『吾妻鏡』承久3年(1221年)5月19日条

「地頭改補の件につきましては、故右大将(源頼朝)がお決めになった地頭を罪なく更迭することはできません。それと、宮殿下を鎌倉殿にお迎えする話を進めたいのですが」

「……それが鎌倉の答えか!」

さぁ上皇陛下のお怒りになるまいことか。とは言え、さすがに一千騎の精兵に恐れをなしたか態度を軟化。

「まぁ、公卿の中から適当な男子を見繕えばよかろう」

こうして宮殿下を鎌倉殿に迎える話は流れたものの、鎌倉殿候補を迎えるお許しが出たので早速探すことに。

三寅(後の藤原頼経)。源氏の血統を受け継ぐ鎌倉殿として迎えられた。

そこで白羽の矢が立ったのが三寅(みとら、後の藤原頼経)。九条道家(くじょう みちいえ。九条兼実の孫)の子で、寅年(建保6・1218年)の寅の月(当年は1月)の寅の刻(深夜2:00ごろ)という三つの寅が重なったため三寅と名づけられたのでした。

母方の血筋ではあるものの亡き源頼朝(演:大泉洋)の甥曾孫に当たり、こうして(ちょっと苦しい解釈ながら)源氏の血を引く鎌倉殿を迎えることが出来ました。

ようこそ鎌倉殿!三寅の到着・盛大な歓迎

霽。左大臣〔道家公〕賢息〔二歳。母公經卿女。建保六年正月十六日寅刻誕生〕下向關東。是故前右大將後室禪尼重將軍舊好之故。爲繼其後嗣依申請之。去月三日可有下向之由 宣下。同九日參春日社〔乘車。殿上人一人。諸大夫三人。侍十人在共云云〕。同十四日。於左府有魚味之儀。同十七日院參。賜御馬御劔等云云。同廿五日自一條之亭渡六波羅。則進發云云。今日午尅。入鎌倉。着于右京權大夫義時朝臣大倉亭〔郭内南方。此間搆新造屋〕。其行列。先女房〔各乘輿。下臈爲先〕雜仕一人。乳母二人。卿局。右衛門督局。一條局。此外相州室。
先陣随兵
三浦太郎兵衛尉 同次郎兵衛尉
天野兵衛尉   宇都宮四郎
武田小五郎   小笠原六郎
相摸小太郎   幸嶋四郎
陸奥三郎    結城左衛門尉
狩裝束人々
三浦左衛門尉  後藤左衛門尉
葛西兵衛尉   土屋左衛門尉
千葉介     筑後左衛門尉
陸奥次郎    小山左衛門尉
駿河守泰時   武藏守義氏
若君御輿
佐貫次郎    波多野次郎
山内弥五郎   長江小四郎
木内次郎     澁谷太郎
本間兵衛尉    飯冨源内
土肥兵衛尉    高橋太九郎
已上歩行列立輿左右
殿上人
伊豫少將實雅朝臣
諸大夫
甲斐右馬助宗保  善式部大夫光衡
藤右馬助行光

藤左衛門尉光經  主殿左衛門尉行兼
四郎左衛門尉友景
醫師
權侍醫頼經
陰陽師
大學助晴吉
護持僧
大進僧都寛喜
以上十人自京都供奉
後陣随兵
嶋津左衛門尉    中條右衛門尉
足立八郎左衛門尉  天野左衛門尉
伊東左衛門尉    遠山左衛門尉
堺兵衛太郎     長江八郎
加地兵衛尉     橘左衛門尉
相摸三郎      兵衛大夫
三浦次郎      河越次郎
伊豆左衛門尉    小山五郎
後陣
相摸守時房
酉刻。有政所始。若君幼稚之間。二品禪尼可聽断理非於簾中云々。

※『吾妻鏡』承久元年(1219年。建保7年4月12日より改元)7月19日条

7月19日、三寅が鎌倉へ到着しました。上記はその時の様子です。せっかくハレ舞台なので、行列に随行したスタッフも紹介していきましょう。

三寅君(ぎみ)を歓迎する御家人たち(イメージ)

【女官たち】
雑仕1名、乳母2名、藤原兼子(演:シルビア・グラブ。卿局)・右衛門督局(うゑもんのかみのつぼね)・一条局(いちじょうのつぼね)、このほか時房の妻。

【先陣の随兵】
三浦重連(みうら しげつら。義村の従弟)/三浦盛連(もりつら。重連の兄)
天野兵衛尉(あまの ひょうゑのじょう。遠景?)/宇都宮頼業(うつのみや よりなり)
武田信政(たけだ のぶまさ。武田信義の孫)/小笠原時長(おがさわら ときなが)
相模小太郎(さがみ こたろう。北条時盛か)/下河辺行時(しもこうべ ゆきとき)
北条重時(しげとき。義時の三男)/結城朝光(演:高橋侃)

【狩装束で随行する者】
三浦義村(演:山本耕史)/後藤基綱(ごとう もとつな)
葛西清重(かさい きよしげ)/土屋宗光(つちや むねみつ。土肥実平の甥)
千葉介胤綱(ちばのすけ たねつな。千葉介常胤の曾孫)/八田朝重(はった ともしげ。八田知家の子)
北条朝時(演:西本たける)/小山朝政(演:中村敦)
北条泰時(俺たちの泰時)/足利義氏(あしかが よしうじ)

【若君の輿を徒歩で警護する者】
佐貫次郎(さぬき じろう。経景か)/波多野朝定(はたの ともさだ)
山内弥五郎(やまのうち やごろう)/長江小四郎(ながえ こしろう。長江四郎明義の子か)
木内胤家(きうち たねいえ)/渋谷光重(しぶや みつしげ)
本間兵衛尉(ほんま ひょうゑのじょう)/飯富長能(おぶ ながよし)
土肥兵衛尉(どひ ひょうゑのじょう)/高橋太九郎(たかはし たくろう)

【殿上人】
※五位以上の内、内裏への昇殿を許された者。平安後期以降、五位以上でも区別されるようになりました。
藤原実雅(ふじわらの さねまさ)

【諸大夫】
※五位以上の内、内裏への昇殿を許されない地下(じげ)の者。
甲斐宗保(かい むねやす)/土岐光衡(とき みつひら)/藤原行光(ふじわらの ゆきみつ)

【侍】
※ここで言う「さむらい」は必ずしも武士ではなく、貴人に仕える下級官人を意味します。
藤原光経(ふじわらの みつつね)/主殿左衛門尉行兼(とのもさゑもんのじょう ゆきかね)/四郎左衛門尉友景(しろうさゑもんのじょう ともかげ)

【医師】
丹波頼経(たんば よりつね)

【陰陽師】
安倍晴吉(あべ せいきつ/はるよし)

【護持僧】
大進僧都寛喜(だいじょうのそうず かんぎ)

【後陣の随兵】
島津忠久(しまづ ただひさ。頼朝の隠し子説も)/中条家長(ちゅうじょう いえなが)
足立元春(あだち もとはる。足立遠元の子)/天野政景(あまの まさかげ)
伊東祐時(いとう すけとき。工藤祐経の子)/遠山景朝(とおやま かげとも)
境秀胤(さかい ひでたね。千葉胤常胤の曾孫)/長江師景(ながえ もろかげ。長江明義の弟)
加治義綱(かじ よしつな。佐々木盛綱の孫)/橘公業(たちばなの きんなり)
北条資時(すけとき。時房の三男)/兵衛大夫季忠(ひょうゑのたいふ すえただ)
三浦泰村(みうら やすむら。義村の次男)/河越重時(かわごえ しげとき)
伊豆左衛門尉(いず さゑもんのじょう)/長沼宗政(演:清水伸)

【後陣の統括】
北条時房

……お疲れ様でした。酉の刻(18:00ごろ)に政所始(まんどころはじめ。政庁の開所式)が執り行われ、まだ2歳と幼いため、政子が政務を後見することになりました。

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終わりに

こうしてひとまず第4代鎌倉殿となった三寅。武家政権の大義名分を確保できてホッとしたことでしょうが、このまま引き下がる後鳥羽上皇ではありません。

三寅の鎌倉殿就任に反対する源頼茂(みなもとの よりもち。源頼政の孫)が京都で謀叛を起こしたとして討たれる(承久元・1219年7月13日。実際は親鎌倉派の粛清との別説も)など、不穏な情勢が続きます。

やがて承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は流鏑馬を口実に諸国の兵を集めて挙兵。手始めに京都守護・伊賀光季(義時の義兄弟)を攻めて軍神の血祭りに挙げるのでした。

果たしてNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、こうした駆け引きをどう描くのでしょうか。

できれば伊賀光季のエピソードは感動ものなので、是非とも演じていただきたいところですが……どうでしょうね。割愛される覚悟はしておきましょう。

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』吉川弘文館、2010年4月
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月

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