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実朝亡き後、第4代将軍となった三寅(藤原頼経)とは何者?その生涯をたどる【鎌倉殿の13人】

鎌倉時代
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建保7年(1219年)1月27日、時の将軍・源実朝(演:柿澤勇人)が暗殺。実朝には子供がいなかったため、幕府当局は源氏の血を引く後継者探しに奔走します。

あてにしていた頼仁親王(よりひとしんのう。後鳥羽上皇の皇子)を迎える話は後鳥羽上皇(演:尾上松也)に拒否されてしまい、このままでは武家政権の正当性が保てません。

必死に探し回った結果、白羽の矢が立ったのは三寅(みとら)。当時まだ2歳の幼児ですが、大事なのは源氏の血統。贅沢を言っている場合ではないのです。

「皇族はダメだけど、公家ならいいよ」後鳥羽上皇も認めてくれたので鎌倉へお迎えするのですが……。

藤原頼経。『集古十種』より

後の第4代将軍・藤原頼経(ふじわらの よりつね)とは、果たしてどんな人物だったのでしょうか。

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源氏の血筋を受け継ぐ……?

藤原頼経は建保6年(1218年)1月16日、九条道家(くじょう みちいえ)の子として誕生。干支の寅年・寅の月・寅の刻(午前4:00ごろ)と「三つの寅」が重なったので三寅と名づけられました。

九条道家は九条兼実(演:田中直樹)の孫で、源氏の血なんて引いていないように見えますが、母方をたどると亡き源頼朝(演:大泉洋)の姉妹・坊門姫(ぼうもんひめ)につながるのです。

(※)実朝の正室(大河ドラマでは千世。演:加藤小夏)も坊門姫と呼ばれますが、とうぜん別人になります。

【源氏略系図】

源義朝(頼朝父)-坊門姫(一条能保室)-全子(ぜんし。西園寺公経室)-掄子(りんし。九条道家室)-三寅(藤原頼経)

でも源氏の血筋であれば、源頼家(演:金子大地)の遺児・禅暁(ぜんぎょう)や、阿野時元(演:森優作)らがいたのに、どうしてでしょうか。

恐らく禅暁は暗殺された頼家の子(母親は一品房昌寛の娘)であり、実朝を暗殺した公暁(演:寛一郎)の兄弟でもあるため、鎌倉殿にお迎えするのは憚られたはずです。

実朝の死に乗じて挙兵する阿野時元。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより

また、阿野時元は頼朝の弟・阿野全成(演:新納慎也)と実衣(演:宮澤エマ。阿波局)の子ですが、尼御台・政子(演:小池栄子)との確執があった可能性も考えられます。

かくして建保7年(1219年)7月19日、(母系であっても)頼朝の甥曾孫に当たる三寅を迎えたことで、鎌倉幕府はその正統性を確保できました。

とは言え、いかんせん2歳の幼児に政治など出来るはずはなく、成人するまでのあいだは政子が後見人となります。いわゆる垂簾聴政(すいれんちょうせい。女性が幼い君主の政務を代行すること)です。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」における三寅の出番はここまで。主人公の北条義時(演:小栗旬)が世を去るまで、これと言った動きを示すことはありません。

【三寅の“その後”に興味のある方は下へ】

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執権北条氏との対立

やがて嘉禄元年(1225年)12月29日に8歳で元服して頼経と改名、翌嘉禄2年(1226年)1月27日に征夷大将軍となりました。

そして寛喜2年(1230年)12月9日、13歳となった頼経は竹御所(たけのごしょ。頼家の娘、29歳)を正室に迎えます。

夫婦の年齢差は16歳。典型的な政略結婚ながら、これで男児が産まれれば源氏の血が濃く?なると期待されたものの、彼女は天福2年(1234年)7月27日に先立ってしまいました。

後に大宮殿(おおみやどの。藤原親能の娘)と再婚した頼経は延応元年(1239年)11月21日に嫡男を授かります。後の藤原頼嗣(よりつぐ)です。

西園寺公経。藤原豪信『天子摂関御影』より

やがてすっかり大人になった頼経は父の九条道家や祖父の西園寺公経(さいおんじ きんつね)らの影響もあって執権・北条泰時(演:坂口健太郎)らと対立を深めました。

それと同時にアンチ泰時の急先鋒であった北条朝時(演:西本たける)ら「名越流北条氏」とも組んで、これまで執権の傀儡と化していた将軍の復権を目指す「将軍派」を形成します。

事態を重く見た第4代執権・北条経時(つねとき)は寛元2年(1244年)4月28日、頼経に対して鎌倉殿の座をわずか6歳の頼嗣に譲らせたのでした。

しかし「大御所」となった頼経はいぜん鎌倉で影響力を保ち続け、翌寛元3年(1245年)7月5日に出家。行賀(ぎょうが)と号し、さながら鎌倉の法皇猊下とばかり打倒執権に策謀を巡らします。

名越光時(なごえ みつとき。朝時の子)や三浦光村(演:込江大牙。駒若丸)、千葉介秀胤(ちばのすけ ひでたね。常胤の曾孫)らと挙兵を図ったものの、事前に察知されてしまい失敗。

第5代執権・北条時頼(ときより)によって頼経は京都へ強制送還されました。時に寛元4年(1246年)閏4月、これが後世に伝わる「宮騒動」です。

特に忠義を尽くしてきた三浦光村は、頼経を京都に送り届けた際に「必ずや再び鎌倉へお迎え(≒北条を討伐)いたします」と泣いたと伝わります。

そして翌宝治元年(1247年)6月5日、三浦一族は執権北条氏を討つべく決戦を挑んだのでした(宝治合戦)。

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失意の晩年

かくして鎌倉における支持勢力・反撃の足がかりを完全に失った頼経。やがて建長3年(1252年)には嫡男の頼嗣も京都へ強制送還されてしまいます。

後嵯峨院。藤原豪信『天子摂関御影』より

第6代鎌倉殿には後嵯峨天皇(ごさがてんのう。第88代)の第一皇子である宗尊親王(むねたかしんのう)が迎えられ、源氏の血統は絶えてしまいました(ただし母系により末代まで存続)。

失意の中で父・道家が世を去り、頼経も赤痢を患って康元元年(1256年)8月11日、39歳で世を去ったのでした。

翌月9月25日にはその後を追うようにして頼嗣も赤斑瘡(せきはんそう。麻疹)で18歳の生涯に幕を閉じます。

当時は全国的に疫病が蔓延していたので、あり得ないことではないものの、元鎌倉殿の相次ぐ死に人々は暗殺説を噂したということです。

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終わりに

以上、第4代鎌倉殿となった三寅こと藤原頼経の生涯をたどってきました。政治の実権を将軍に取り戻そうと奮闘するも、敗れ去っていく姿は非情に興味深いものです。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では子役としてのみの登場(まさか言及のみってことはない)と思われますが、キャスティングが誰になるのか楽しみですね。

※参考文献:

  • 高橋慎一郎『人物叢書 北条時頼』吉川弘文館、2013年7月
  • 細川重男 編『鎌倉将軍 執権 連署列伝』吉川弘文館、2015年11月
  • 細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書、2022年8月

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