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「影薄い」とか言うな!三浦義村の長男・三浦朝村の生涯をたどる【鎌倉殿の13人】

鎌倉時代
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源家累代の家人として源頼朝(みなもと よりとも)の挙兵に呼応し、鎌倉幕府の柱石として活躍した三浦一族。

棟梁の三浦義村(みうら よしむら)は源家三代(頼朝・頼家・実朝)そして藤原頼経(ふじわらの よりつね。三寅)と4代の鎌倉殿に仕え、その子らもまた忠義を尽くしました。

今回は義村の息子たちの中から、長男・三浦朝村(みうら ともむら)を紹介。三浦の家督は弟で次男の三浦泰村(やすむら)が継ぐのですが、果たして何があったのでしょうか。

鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』をひもといて、朝村の生涯をたどっていきましょう。

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デビュー当日、重大事件が……

三浦朝村の生年についてはっきり記した史料がないため、推測となります。

父の義村が仁安3年(1168年)生まれと推測、弟の泰村が元久元年(1204年)生まれとされるため、建久元年(1190年)~建仁3年(1203年)ごろの誕生と考えられるでしょう。

松岡映丘「右大臣実朝」

通称は駿河太郎(するがのたろう。小太郎とも)、これは義村が駿河守であったのでその長男の意。朝村の朝は元服に際して主君・源実朝(さねとも)から授かったと言われています。

『吾妻鏡』での初登場は承久元年(1219年)1月27日、実朝が鶴岡八幡宮寺に参詣した際に随兵として同行しました。

……次随兵(二行)
……秋田城介景盛(甲黒糸威)三浦小太郎時村(甲萌黄)……

【意訳】随兵が二列で続く。(中略)秋田城介こと安達景盛(あだち かげもり。黒糸縅の鎧)と三浦小太郎朝村(時村は誤字。萌黄縅の鎧)……

※『吾妻鏡』承久元年(1219年)1月27日条

建久元年(1190年)の誕生だとするとこの時30歳。義村の嫡男ともあろう者がこの歳になるまで何の活動も記録されてないというのは違和感があります。なので恐らく、このころ20歳前後と考えるのが自然です。

すると朝村の誕生は正治元年(1199年。建久10年)ごろ~建仁3年(1203年)の間に絞り込めるでしょう。生母は弟の泰村と同じく土肥遠平(どい とおひら。土肥実平の嫡男)の娘と考えられます。

しかしせっかくの公務デビューにもかかわらず、実朝は甥の公暁(くぎょう/こうぎょう)によって暗殺され、のっけからケチがついてしまったのでした。

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武勇を示すエピソードは特になし

やがて鎌倉と朝廷の間で勃発した承久の乱(承久3・1221年)には弟の泰村が出陣。大いに活躍した一方で朝村は鎌倉でお留守番でした(出陣の記録なし)。

大事な嫡男だから何かあったら大変なのもわかりますが、血気盛んな若武者としては歯がゆい思いだったかも知れません。

その後は正月に引出物(将軍への献上品)を用意し、儀礼に参加するなど三浦の御曹司として務めを果たしました。

……一御馬。駿河小太郎兵衛尉朝村。同三郎光村引之。

【意訳】一番目の馬は、朝村と弟の三浦三郎光村(さぶろうみつむら)が曳いてきた。

※『吾妻鏡』貞応元年(1222年)1月1日条
光村と一緒に献上品の馬を曳く朝村(イメージ)

晴。自去夜。若君聊御惱。仍戌尅。於御所南庭。被行月曜祭。大夫泰貞奉仕之。嶋津左衛門尉忠久沙汰之。御使駿河太郎兵衛尉朝村。

【意訳】昨夜から体調不良だった若君(三寅)のため、午後8:00ごろに御所の南庭で月曜祭(げつようさい)と執り行った。担当は大夫泰貞(たいふやすさだ)と島津左衛門尉忠久(しまづ さゑもんのじょうただひさ)。寺社へ祈願するため、朝村が代参した。

※『吾妻鏡』貞応元年(1222年)3月8日条

……余談ながら、月曜祭とは月食を祀る(月食による障りを防ぐ)祭礼で、月食は羅睺星(らごうせい)と計都(けいとせい)という天体が月と地球の間に入り込むために生じると考えられていたと言います。

月の満ち欠けが人体に影響を及ぼすこともあるため、三寅の体調不良が月食によるものと考えられていたのかも知れません。

さて、朝村が最後に登場するのは嘉禎3年(1237年)6月23日。大慈寺の境内に精舎を新築、そこへ安置した丈六仏(一丈六尺≒約4.8メートルの仏像)の開眼供養にお供しました。

(前略)御車
駿河五郎左衛門尉 同八郎左衛門尉
同太郎……(中略)……以上着直垂。帶劔。候御車左右。(後略)
【意訳】
三浦資村(駿河五郎左衛門尉)と三浦胤村(駿河八郎左衛門尉)、そして朝村たちは鎧直垂姿で帯刀し、牛車の左右を警護した。

※『吾妻鏡』嘉禎3年(1237年)6月23日条

……これきり姿を消したのですが、暗殺なら『吾妻鏡』編纂者がこれでもかとばかりに謀叛(殺されるべき理由)を強調するでしょうから、恐らく病死と思われます。もし勘当されたのであれば、やはりそれに足る理由を興味深く書き残したはずです。

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終わりに

弟の泰村たちがそれぞれ武勇や個性を発揮しているのに対して、ひたすらソツなく役目を果たし、いつの間にか消えて行った朝村。

(宝治元・1247年6月5日の宝治合戦で三浦一族が滅亡するさまを見ずにすんで、まだ幸せだった……とも言えなくはありません)

現代でもこういう人をたまに見かけますが(恐らくたくさんいるものの、大抵気づかないだけかも)、彼らのような人々の働きによって、幕府も社会も支えられていることに思いを致したいところです。

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 8承久の乱』吉川弘文館、2010年4月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 9執権政治』吉川弘文館、2010年11月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 10御成敗式目』吉川弘文館、2011年5月
  • 石丸煕『海のもののふ三浦一族』新人物往来社、1999年11月
  • 高橋秀樹『三浦一族の研究』吉川弘文館、2016年5月

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