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3歳で母と生き別れ…『徳川実紀』が伝える竹千代少年の幼少期【どうする家康】

戦国時代
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幼いときから苦労を重ね、ついには天下人に上り詰めた徳川家康(とくがわ いえやす)。史上最大級のサクセス・ストーリーは今でも多くの人々を魅了しています。

今回は江戸幕府の公式歴史書『徳川実紀(とくがわじっき)』より、家康の幼少期を一部紹介。2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」の予習にどうぞ。

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神の御加護で生まれた竹千代

徳川家康は天文11年(1543年)12月26日、三河国の弱小大名・松平広忠(まつだいら ひろただ)と於大の方(おだいのかた。水野忠政娘)の間に生まれました。

彼女が鳳来寺(現:愛知県新城市)に参籠、薬師如来に願掛けをして満願成就となる七日目の夜。薬師如来を守護する十二神将の一柱・寅神(真達羅大将)が出現したと思ったら、たちまち身ごもったと言われます。

寅神(画像:Wikipedia)

これは天のご加護を受けた子に違いない……果たして男児が産まれると、魔除けの蟇目(ひきめ。鏑矢を射る儀式)は石川安芸守清兼(いしかわ あきのかみきよかね)が務め、酒井雅楽助正親(さかい うたのすけまさちか)が胞刀(えながたな)を献上しました。

胞刀とは胞衣(えな。へその緒を含む胎盤)を切るための竹製小刀(ペーパーナイフをイメージするといいでしょう)で、腹部に金属の刃を用いる(切腹を連想させる)ことを忌む価値観から生まれた習慣です。

じっさい正親がへその緒を切るまでしたのかは分かりませんが、ともあれめでたいめでたい……御七夜に臨んで、男児は竹千代(たけちよ)君と名づけられました。

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伯父・水野信元の裏切り

かくして世に生を享けた竹千代君(ぎみ)。健やかに成長したものの、幸せな日々は長く続きません。

祖父の水野忠政(みずの ただまさ)が亡くなると、その子(竹千代にとっては伯父)の水野下野守信元(みずの しもつけのかみのぶもと)が、松平の主家である今川義元(いまがわ よしもと)を裏切ったのです。

敵対する織田信秀(おだ のぶひで)に与したとの報に接した広忠は「我らが今日あるは今川殿のおかげ。それを忘れて織田に内通する下野守との縁は断たねばならぬ」と於大の方を離縁することに決めたのでした。

この時、竹千代はわずかに3歳(満年齢では2歳)。母親が恋しい年ごろに引き裂かれた思い出は、一生の傷となったことでしょう。

「母上、母上……」

「……いい子に待っているのですよ」

さて、金田や阿倍といった家臣らに送られて刈屋(かりや。現:愛知県刈谷市)までやってくると、於大の方は家臣たちに言いました。

「そろそろこの辺で……」家臣たちを帰らせる於大の方(イメージ)

「我が兄、下野(信元)殿は考えなしで、そなたたちを殺そうとするでしょう。もしそうなれば、いつか伯父甥の関係である竹千代との和睦に差し障ります。私のことはもういいですから、早く帰りなさい」

「いや、御台所を置き去りにするのは……」

家臣たちはためらったものの、仕方なく引き返していきます。すると間もなく、刈屋から信元の手勢が20~30人ばかりやって来ました。

「あれ、松平の連中は?」

「とうの昔に私を置いて帰りました。追い駆けても追いつけないでしょうから、早く私を連れ帰りなさい」

「「「……ははぁ」」」

こうして無益な流血が避けられたということです。ところで於大の方には姉・於丈の方(おじょうのかた)がおり、形原(現:愛知県蒲郡市)の松平家広(いえひろ。紀伊守)に嫁いでいましたが、こちらも今回の件で離縁されます。

家広の家臣たちが彼女を刈屋まで送り返したところ、信元の家臣らによってたちまち全滅させられたのでした。

「流石は海道一の弓取りを生んだ母だ……」

後世の人々はこの事を知り、於大の方の聡明さを褒めたたえたということです。

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終わりに

竹千代君の苦難は始まったばかり(イメージ)

……天文十一年十二月二十六日此御腹に  若君安らかにあれましける。これぞ天下無彊の大統を開かせ給ふ當家の  烈祖東照宮にぞましましける。その程の奇瑞さまざま世につたふる所多し。(北方鳳来寺峰の薬師に御所願ありて。七日満願の夜薬師十二神将の寅神を授け給ふと見給ひしより。身重くならせ給ふなど。日光山の御縁起にも記されし事多し。)石川安藝守清兼蟇目をなし。酒井雅楽助胞刀を奉る。御七夜に  竹千代君と御名参らせらる。こヽに御母北方の御父水野忠政卒して後。その子下野守信元は今川方を背き織田がたにくみせられぬ。  廣忠卿聞給ひ。吾今川の興国たるとは人もみなしる所なり。然るに今織田方に内通する信元が縁に結のふるべきにあらずとて。北方を水野が家に送りかへさるヽに定まりぬ。これは  竹千代君三の御歳なり。御母子の御わかれをおしみ給ふ御心のうちいかばかりなりけむ。さてその日になれば金田阿倍などいへる御家人等をそへられて。北方を御輿にのせて刈屋へをくりつかはさる。北方途中に於てをくりの人々に仰せけるは。わが兄下野殿はきはめて短慮の人なり。汝等我を送り来りたりと聞ば。定めて憤りて一々切りて捨らるヽか。又は髪を剃て追放し辱しむるか。二の外には出べからず。左もあらんにはわらはこそ縁盡て兄のもとにかへさるヽとも。  竹千代を岡崎にとゞめをけば。岡崎のものを他人とは思はず。そのうへ下野殿と  竹千代とは叔姪の中なれば。終には和睦せらるべし。下野殿今汝等を誅せられんに於ては後に和睦のさまたげとなるべし。とくわらはを捨てかへるべしとて。いかに申せども聞入れ給はねば。御送りのともがらもせんかたなく。その所の民どもに御輿をわたし御暇は申けれど。猶心ならねば片山林のかげに身をひそめうかゞひ居たりしに。はたして刈屋より混■二三十人出来たり。御送りの者ことゞヽく討て捨てよと下野守殿仰をうけてきたりしに。御送りの岡崎士等はいづかたにあるやといぶかる。北方御輿の中よりかれらをめして。岡崎のものどもははやくわらはをすてヽ帰りしが。今程ははや岡崎へや至りつらん。追かけても及ぶまじと仰ければ。刈屋のものども力なく御輿を守護して刈屋へかへりたり。この北方の姉君は形原の紀伊守家廣の妻なりしが。家廣も  廣忠卿すでに北方を御離婚ありしに。我又水野が縁につらなるべからずとて。その妻をも刈屋に送り帰りたりしに。信元大に怒りて送りのもの一人も残さず伐て捨つ。こヽに於て後までも。  廣忠卿の北方は女ながらも。海道一の弓取とよばれ給ふ名将の母君ほどましヽヽて。いみじき御思慮かなと世にも聞傳へて感歎せぬはなかりけり……

※『東照宮御実紀』巻一 天文十三年~同十六年より

かくして母と引き離されてしまった竹千代。この後、今川義元の人質となって雌伏の歳月を乗り越えることとなるのですが、その辺りも改めて紹介したいと思います。

NHK大河ドラマ「どうする家康」では、竹千代の幼少期がどのように描かれるのか、楽しみですね!

※参考文献:

  • 成島司直ら編『徳川實紀 第壹編』経済雑誌社、1904年2月

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