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徳川幕府の樹立と確立、そして深まる豊臣家との対立…関ヶ原後から二条城の会見まで【どうする家康】

戦国時代
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天下分け目の関ヶ原合戦(慶長5・1600年9月15日)を制した「我らが神の君」こと徳川家康。

まだ幼かった豊臣秀頼の名代として、天下の政権を取り仕切っていくのですが、やがて豊臣家との対立を深めていきます。

今回は関ヶ原の戦後処理から二条城の会見まで、駆け足で紹介していきましょう。

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関ヶ原の論功行賞。意外と太っ腹?な家康。しかし実は……。

関ヶ原で奮戦した勇士らを賞賛する家康。月岡芳年筆

関ヶ原の合戦に勝利した家康は、自分に味方してくれた大名たちに所領を大盤振る舞いしたと言います。

コツコツ倹約家の家康にしては気前がいいな……と思ったらさにあらず。

実は大盤振る舞いした所領は、敵から奪い取ったものの他、豊臣家の領地まで削りとって与えていたのでした。

家康「皆の者、でかしたぞ!さぁ持ってけ持ってけ……どうせわしのモンじゃないからのぅ(ぼそ)」

そのせいで、以前は約220万石あった豊臣家の領地は、実に1/3以下の約65万石にまで減ってしまったのです。

「この狸親父め、何ということを!」

秀頼の母・淀殿をはじめ怒り狂う豊臣家当局。しかし家康は馬耳東風でした。

「え?いいじゃないですか。手柄を立てた者にはきちんと恩賞で報いてやらんと行けませんぞ。昔から『御恩と奉公』って言うでしょ?日本史の授業を聞いてなかったんですか?」

冗談はさておき、表向きはあくまで豊臣恩顧の大名たちに手厚くしているのですから、豊臣家としてもあまり文句は言えません。

「それじゃ、わしはこれにて御免」

「キーッ!」

かくして家康は、合法的に豊臣家の勢力削減に成功したのでした。と同時に、豊臣家の大名たちに恩も売りつける一石二鳥。さすがは狸と言ったところでしょうか。

家康、征夷大将軍に

ついに憧れの征夷大将軍。頼朝公と同じ地位に。

さて、次の段階として、家康は武家の棟梁たる征夷大将軍を目指します。

朝廷へ働きかけた甲斐あって、家康は慶長8年(1603年)2月12日に征夷大将軍となりました。

このとき家康は伏見城におり、以後第3代徳川家光の代まで、伏見城で征夷大将軍に任じられる慣習が続きます。そのため、歴史家の中には江戸幕府ではなく伏見幕府とする説もあるとか。

※いずれにしても、幕府という武家政権の呼称自体が後世のものなので、どっちでもいいようには思います。

「おのれ狸!豊臣の天下を奪いとろうてか!」

「……いえいえ何をおっしゃいますか。征夷大将軍はあくまで源氏の棟梁。武家の棟梁たる豊臣家をお支えする気持ちに変わりはござらぬ」

とか何とか。もちろんそんな詭弁は誰も真に受けませんが、ともあれ家康は尊敬していた源頼朝公と同じ征夷大将軍となって、嬉しかったことでしょう。

「キーッ!」

「落ち着いて下され。きっと徳川殿は若君をお支えするつもりであって、将来的には将軍職をお譲りなさるでしょう……」

なんて噂もあったとかなかったとか。しかしそんな淡い期待は散々に打ち砕かれます。

慶長10年(1605年)4月16日、家康は征夷大将軍の職を嫡男の徳川秀忠に譲ってしまったのでした。

もうこれで、徳川の天下は揺るぎないものとなった。誰もがそう思い始めたことでしょう。

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徳川と豊臣の立場が逆転。どうする秀頼?

豊臣秀頼(画像:Wikipedia)

さぁ、いよいよ家康は名実ともに天下人です。こうなったら流石の豊臣家も、真っ向から太刀打ちすることは難しくなります。

「さぁ、どうする?」

慶長10年(1605年)5月8日、家康は秀頼に対して臣下の礼を要求しました。

「ふざけるな、この狸めが!」

「まぁまぁ……」

高台院(北政所、おね)を通じて要求が伝えられますが、淀殿がこれを受け入れるはずもありません。

さらに挑発してやりたいところですが、力押しで潰すにはまだまだ強大な豊臣家。ひとまず時間を稼ごうと、家康は六男の松平忠輝を派遣してなだめたのでした。

……挨拶に来いというのがダメなら、お互い出向いて会見するのはどうだろう。というわけで慶長16年(1611年)3月、家康は後水尾天皇の即位を祝賀する名目で上洛。京都二条城で秀頼に会見を申し入れました。

「あの狸めが……」

「「まぁまぁ、お出かけついでに会ってやるくらいなら、譲ってやってもよいのでは……」」

いきり立つ淀殿を加藤清正や浅野幸長がなだめ、ここに二条城の会見が実現することになります。

終わりに・二条城の会見へ

以上、NHK大河ドラマ「どうする家康」第44回放送「徳川幕府誕生」で描かれた?約11年間を、大急ぎでたどってきました。

あれよあれよと言う間に徳川と豊臣の力関係が逆転し、徐々に滅亡の足音が聞こえてくるようです。

家康が世を去る元和2年(1616年)4月17日まで、ラスト4回。果たしてどんなペース配分で描かれるのか、最後まで注目していきましょう。

※参考文献:

  • 池上裕子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』講談社、2002年1月
  • 光成準治『列島の戦国史 9 天下人の誕生と戦国の終焉』吉川弘文館、2020年11月

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