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【歴史旅】北条氏滅亡後、鎌倉玉縄の代官を務めた松平正次とは何者か【どうする家康 外伝】

戦国時代
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私事で恐縮ながら、筆者の菩提寺である鎌倉・久成寺(日蓮宗)の境内に、小さくたたずむ一基のお墓。

久成寺の境内にたたずむ松平甚之助新兵衛内室の墓。筆者撮影(c)歴史屋

その傍らには「松平甚之助新兵衛内室の墓」と書かれた案内書きの高札が立てられています。さっそく読んでみましょう。

天正十八年(一五九〇)四月玉縄城が落城した後、徳川家康はこの地玉縄領を代官松平甚右衛門正次におさめさせた、その居蹟は今の植木「陣屋」にあると伝えられる

その子松平甚之助新兵衛(駿河大納言忠長卿に仕えた人)の内室妙秋院日種の霊とその一族の祖霊を供養のため後裔にあたる松平甚之助久勝が元禄七乙戌年五月朔日ここに墓を建てたものである。

相中留■(思)記略より

昭和六十乙丑年五月朔日

卅一世 日慈識

※久成寺の案内板「松平甚之助新兵衛内室の墓」より

……要するにこのお墓の主は妙秋院日種(みょうしゅういん にちしゅ)、松平甚之助新兵衛(まつだいら じんのすけしんべゑ)の妻だったようです。

そして甚之助新兵衛の父が松平甚右衛門正次(じんゑもんまさつぐ)、彼が徳川家康の代官として玉縄領、現代の鎌倉市北西部を統治したのでした。

今回はこの松平正次を中心に、その一族について調べてみたいと思います。

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『寛政重脩諸家譜』をひもといてみる

イメージ

松平正次は生没年不詳、かつての家康と同じ松平を名乗ってはいましたが、別家の長澤松平家に生まれます。

【長澤松平家略系図】

……松平親則―松平親益―松平親清―松平勝宗―松平宗忠―松平親常―(松平親吉?)―松平正次……

※『寛政重脩諸家譜』巻第四十・四十一より

正次

甚右衛門 大河内の家に傳ふる長澤の系図には、親常が子を甚右衛門親吉、其子を正次とす。

※『寛政重脩諸家譜』巻第四十一 清和源氏 義家流 松平支流 松平 長澤

正次本人の事蹟についてはまったく記されていませんね。それでは息子についてはどうでしょうか。どうやら二人いるようです。

正綱

初正久 長四郎 右衛門佐 右衛門大夫 實は大河内金兵衛秀綱が二男、東照宮の仰により正次に養はれて松平と称す。然れどもなを大河内の世系を改めず。清和源氏頼光流大河内の譜中に見えたり。

正吉

新助 兄右衛門大夫正綱が家臣たり。

※『寛政重脩諸家譜』巻第四十一 清和源氏 義家流 松平支流 松平 長澤

嫡男の松平正綱は大河内家からの養子で、恐らく実子であろう松平正吉が兄に仕えたようです。

正綱が正次の養子となったのは天正15年(1587年)、その後は家康の側近として重用され、後に相模国玉縄藩の初代藩主となりました。

正吉(新助)については、案内板に登場した松平甚之助新兵衛と名前が異なるものの、恐らく同一人物ではないでしょうか。

墓の主である妙秋院日種(俗名はタネ?)はこの正吉に嫁ぎ、義兄に仕える夫を支えたものと思われます。

後に松平甚之助新兵衛(新助?)は駿河大納言こと徳川忠長(家康の孫で、秀忠の三男)に仕えましたが、忠長は兄・徳川家光によって自害させられてしまいました。

果たして松平甚之助新兵衛も連座(連帯責任で処罰)させられたのか、気になるところですね。

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終わりに

【松平正次・関連略年表】

生年不詳
天正15年(1587年)大河内家より正綱を養子に迎える
時期不詳次男の松平正吉(甚之助新兵衛?)が誕生
天正18年(1590年)北条氏が滅亡、玉縄領の代官となる
※玉縄は本多正信の所領となっており、正次の代官職は一時的か?
没年不詳
時期不詳松平正吉が義兄の正綱に仕える(のち徳川忠長に仕える)
寛永2年(1625年)正綱に朱印状が発給され、玉縄藩が確立
※それ以前から治めていたようだが、時期は不詳
寛永9年(1632年)徳川忠長が改易される(正吉が生きていれば連座?)
慶安元年(1648年)松平正綱が没する
元禄7年(1694年)子孫の松平甚之助久勝が一族を供養する墓を建立
※『寛政重脩諸家譜』や案内板などを元に作成。諸説あり

以上、謎の多い松平正次について調べてきました。非常に地味な存在なので、残念ながら大河ドラマなどに登場することはまずありません。

しかし家康の天下取りはこうした忠臣たちに支えられてこそ成し得たもの。家康が彼らの献身を忘れることはなかったでしょう(そのはずです)。

ちなみに、正次の弟である松平親宅(ちかいえ)の子孫はその後も存続しており、また改めて紹介したいと思います。

久成寺データ

久成寺の本殿。筆者撮影(c)歴史屋
創 立永正17年(1520年)春3月
開 山常光院日舜上人 享禄4年(1531年)4月22日遷化
開 基松田尾張守秀長公 天文3年(1533年)10月13日逝去
中 興第4世佛乘院日覴(にちとう)上人 元和元年(1615年)3月28日遷化
賜朱印天正19年(1591年)11月 徳川家康公来駕のみぎり、寺領3石を賜う
本 堂文政5年(1822年)池魚の災い(詳細不明。池魚の災いとは思いがけない災難のこと)、昭和30年(1955年)創建450年記念で改修、昭和56年(1981年)日蓮七百遠忌記念で内陣を拡張
山 門大坂の豪商・鴻池家夫人が本山龍口寺に寄進したものを明治初期に移築。昭和46年(1971年)に日蓮生誕750年記念で銅葺に改装
日蓮像日蓮700遠諱追賁報恩のため造顕
忠魂碑明治維新以降の英霊(郷土応召戦死病没の芳名)を祀るため、玉縄小学校に建立された。昭和28年(1953年)に移設
史 跡長尾新六郎定景(平安末期~鎌倉初期の武将。上杉謙信の祖先)一族の祖霊を祀る石塔群を、昭和32年(1957年)に長尾城址(横浜市栄区長尾台町)より遷座
備 考徳川家康が北条氏を攻める時、当山で祈祷を依頼。恩賞として寺領3石を与えたほか、鷹狩りの際に葵の御紋が入った弁当箱を授けたと伝わる
住 所〒247-0073 神奈川県鎌倉市植木494
交 通JR各線大船駅西口よりバス「久成寺前」下車すぐ
長尾定景一族の供養塔。上杉謙信ファンなら是非とも一度は手を合わせたい。筆者撮影(c)歴史屋

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第一輯』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 平井聖『日本城郭大系 6 千葉・神奈川』新人物往来社、1980年2月

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