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偏屈さは戦国随一?武田信玄公を支えた武田二十四将・内藤昌秀のエピソード

戦国時代
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戦国時代「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄(たけだ しんげん)公。

その偉業を支えた「武田二十四将」の一人である内藤昌秀(ないとう まさひで。修理)は文武に秀でた名将として、信玄公から厚く信頼されていました。

内藤修理昌秀。昌豊とも(画像:Wikipedia)

しかしこの昌秀は優れている反面、大変な偏屈者でもあったと言います。

今回はそんな内藤昌秀の偏屈エピソードを紹介。戦国武将らしい硬骨漢ぶりが、ファンにとってはたまらない魅力でもあります。

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喧嘩両成敗に異議あり!

天文16年(1547年)に信玄公が定めた分国法「甲州法度次第」。はじめ55ヶ条、後に2ヶ条追加された中に「喧嘩両成敗(第17条)」が定められていました。

喧嘩をした者は理由に関係なく両方とも処罰する。ただし我慢した者は罪に問わない……これで喧嘩がなくなるかと思った信玄公ですが、昌秀はこれに抗議します。

「これでは喧嘩を買った者がみんな処刑か追放されていなくなる一方、泣き寝入りする腰抜けばかりが生き残り、武田家は弱体化してしまうでしょう」

本来は陣中での運用を想定。戦さを前に喧嘩するバカ共は斬り捨てるべし(イメージ)

もちろん後先を考えずに喧嘩騒ぎを起こすようなバカなど斬ってしまえばいいのですが、どうせ相手が「命惜しさに反撃してくるまい」と高をくくり、不当に挑発するような卑怯者は断固罰するべき。

ちなみに自分は、息子たちに「たとえ磔(はりつけ)に処されようと、売られた喧嘩は絶対に買え!死んでも泣き寝入りなんかするな」と教えたとか。

現代的な事なかれ主義を徹底的に否定したのでした。

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数々の武勲を立てたのに感状ゼロ、その理由は?

甲陽軍鑑』で「古典厩信繁(信玄公の弟・武田信繁)、内藤昌豊(昌秀)こそは、毎事相整う真の副将なり」と称された昌秀は、一歩引いたところから大将をよく支え、戦さを勝利に導きました。

武田の副将として勝利に貢献。歌川国芳「甲陽二十四將之一個 内藤修理昌豊」

数々の武勲を重ねた歴戦の勇士なればこそ、その感状(かんじょう。功績に対する表彰状)もたくさんもらっているだろう……と思うのですが、なんと昌秀は一枚も感状を貰ったことがないのだとか。

「修理(昌秀)殿ほどの方が、何ゆえでしょうか?」

聞かれて信玄公は答えました。

「あれほどの男にとって、これしきの手柄は日常茶飯事。いちいち感状を渡しておったらキリがないわい」

一方の昌秀も昌秀で「別にそんなもん要らん。御屋形様の思いは十二分に受け取っておる」と嘯いたとか。

勝利は武田家のものであり、個々人の手柄にこだわるなど下らない……度量の大きさと、主従の強い絆が感じられますね。

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エピローグ

そんな昌秀は、信玄公の死後も武田家を支えるため家督を継いだ武田勝頼(かつより)公に仕えました。

……が、昌秀の偏屈ぶりにそりが合わなかったのか、勝頼からは疎まれてしまいます(昌秀に限らず、信玄公時代に活躍した老臣たちの多くは疎まれてしまうのですが……)。

「わしを父と比べるな、わしにはわしのやり方がある!」

信玄公の武勇をいかんなく受け継ぎ、一時は武田家の最大勢力を勝ち取るほどに活躍した勝頼。しかし老臣たちを見返してやろうと躍起になればなるほど、老臣たちの心は離れていってしまうのでした。

武田家の将来が危ぶまれる中、昌秀は天正3年(1575年)5月21日の長篠合戦で討死。

自分を疎んじた主君であれば、より一層(喪うに惜しい名臣であったと)解らせ甲斐があるというもの。歌川芳虎「甲斐乃四将之内 内藤修理正昌豊」

何とか勝頼を逃がすため、同僚の馬場信春(ばば のぶはる)と共に敵を食い止めての最期でした。享年54歳。

ここで並の者なら「疎まれたのだから、裏切ってやろう」と思ったかも知れません。しかしどんなに疎まれようと、自分は決して裏切らない。最期まで変わらなかった昌秀の偏屈ぶりは、今も多くのファンに愛され続けています。

※参考文献:

  • 菅野覚明『武士道の逆襲』講談社現代新書、2004年10月
  • 柴辻俊六 編『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年6月
  • 平山優『敗者の日本史9 長篠合戦と武田勝頼』吉川弘文館、2014年1月

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