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【光る君へ】まひろはなぜ藤式部と呼ばれた?紫式部じゃないの?彼女の女房名について

平安時代
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NHK大河ドラマ「光る君へ」皆さんも観ていますか?

藤原彰子(見上愛)の女房として内裏に出仕したまひろ(吉高由里子)は、宮の宣旨(小林きな子)から「藤式部(とうしきぶ)」の名を授かりました。

まひろが「藤」原氏であることと、父の藤原為時(岸谷五朗)が過去に式部丞(しきぶのじょう)の官職であったことに由来すると言います。

しかしここで疑問が湧きませんか?なぜ彼女は藤式部と呼ばれたのでしょうか。

※今回は便宜上「藤式部」で統一します。

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なぜ夫でなく、父のしかも過去の官職?

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藤式部が出仕したのは寛弘2年(1006年)12月か寛弘3年(1007年)12月ごろ。

この時期において、為時は越前前司(越前の元国司)。式部丞なんてもういつの話?状態です。

藤は変わらないとしても、いつまでも「式部」なのも違和感がないでしょうか。

また藤式部は既婚者(未亡人)であり、亡き夫・藤原宣孝(佐々木蔵之介)の官職であった右衛門権佐や山城守を持ってきてもよいはずです。

その場合は藤右衛門(とうのうゑもん)・藤山城(とうのやましろ)などとなっていたのかも知れません。

なぜ藤式部の女房名は夫でなく、父親のしかも過去の官職で表されたのでしょうか。

彰子より前に出仕していた?

その疑問を解消する一説があります。

藤式部は彰子より前に、彰子の母親である源倫子(黒木華)に出仕していたと言うのです。

時期は為時が式部丞となった永観2年(984年)から越前守に任じられる長徳2年(996年) より前の間と考えられるでしょう。

『源氏物語』の解説書である『紫明抄(鎌倉時代)』や『河海抄(室町時代)』によると、永延元年(987年)に倫子が藤原道長(柄本佑)と結婚した際に藤式部が倫子付きの女房となったと言われています。

倫子へ出仕していた頃の女房名が、そのまま彰子時代にも引き継がれたものと考えられるのです。

そして「紫」式部へ

紫式部。抱一応挙筆

かくして彰子に出仕した藤式部。やがて『源氏物語』がヒットするにつれて、本作の正ヒロインである紫上(むらさきのうえ)から紫式部と呼ばれるようになりました。

女房名に色彩が採られるケースはまれで、それだけ彼女の存在が特殊であったと言えるでしょう。

果たして「光る君へ」では、藤式部がどのように紫式部へと変貌していくのか、注目しています。

※参考文献:

  • 徳満澄雄「紫式部は鷹司殿倫子の女房であったか」九州大学国語国文学会『語文研究 第62号』1986年12月

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