伊周の義兄 源 方理(みなもとのかたまさ)
阿部 翔平(あべ・しょうへい)藤原伊周の妻・幾子の兄。
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
藤原伊周の関係者というだけで不吉な予感しかしませんが、果たしてどんな人物だったのでしょうか。
今回は大河ドラマの予習として、源方理の生涯をたどってみたいと思います。
源方理の出自
源方理は生年不詳、源重光(しげみつ)と行明親王女(ゆきあきら娘)の間に誕生しました。
同母兄弟には源長経(ながつね。源明理とも)、源則理(のりみち)がいます。
【源方理・略系図】
……醍醐天皇―代明親王(よしあきら)―源重光―源方理……
また異母兄弟として源通雅(みちまさ)、源康経(やすつね)、女子2名がいました。
女子(源重光女)はそれぞれ藤原道長と藤原伊周と結婚しており、方理はどちらとも義兄弟の間柄となっています。
長徳元年(995年)12月までには従五位下・右近衛少将(うこのゑのしょうしょう)となっており、年が明けた長徳2年(996年)1月の除目で備後介(びんごのすけ。国司次官)を兼任しました。
長徳の変でとばっちりを受ける
しかし同年4月にいわゆる長徳の変が勃発すると、方理は伊周に連座して官職を剥奪され、殿上簡も削られてしまいます。
殿上簡(てんじょうかん)とは昇殿を許可された者の名簿(※)。五位以上の方理には資格があるのですが、罰によって除名されたのでした。
※名前は木簡や竹簡(木や竹の札)に書いたので、その表面を薄く削って名前を消したのです。
長徳の変は伊周・隆家兄弟の私的な暴走に過ぎず、とんだとばっちりを受けた方理。
道長らもそれは分かっていたようで、同年7月には方理の官職(右近衛少将 兼 備後介)は元通りにされました。
しかし昇殿は許されないままで、明らかに伊周派として政権からは遠ざけられたのです。
呪詛を企み、官位を剥奪される
何となくパッとしないまま歳月は流れ、方理は長保元年(999年)に左近衛少将(さこのゑのしょうしょう)となり、長保2年(1000年)には兼任していた備後介を辞したと言われます。
やがて寛弘2年(1005年)には民部大輔(みんぶのたいふ)に任じられました。
民部大輔とは戸籍や租税を取り扱う民部省の次官です(長官は民部卿)。
道長の義兄弟でもあったためかそれなりの扱いを受けていた方理ですが、やはり不満は燻っていたのでしょう。
寛弘6年(1009年)には伊周の叔母である高階光子(こうし/みつこ)らと共謀して、道長とその娘・藤原彰子(しょうし/あきこ。一条天皇後后)を呪詛しました。
僧侶の円能(えんのう)に厭符(えんぷ。呪詛に用いる札)を作らせたことが発覚し、捕らわれて官位を剥奪されてしまいます。
なぜ方理らは呪詛に及んだ?
方理らが呪詛に及んだ最大の動機は、彰子が前年に敦成親王(あつひら。のち後一条天皇)を産んだこと。
これによって一条天皇と藤原定子(ていし/さだこ。亡き先后)の第一皇子である敦康親王(あつやす)の立場が危うくなったのです。
当時は彰子の養子として大切に育てられ、道長も(彰子が男児を産めなかった場合の保険として)丁重に扱っていましたが、敦成親王が生まれてしまえばもはや用済みとなってしまいます。
彰子は自分の皇子と変わらず愛し続けましたが、道長はそうもいきません。
自分の孫を皇位につけたい一心で、手のひらを返したように敦康親王をいじめ続けるでしょう。
※実際に敦康親王は皇位継承者から外されました。
呪詛は忌むべき行為ですが、方理らにはそうした切羽詰まった事情があったのです。
源方理その後
しかしまぁ未遂に終わった&被害もなかったため、翌寛弘7年(1010年)には復位できました。
三条天皇の御代においては皇后・藤原娍子(せいし/すけこ)に仕える皇后宮亮(こうごうぐうのすけ)を務めます。
さらに後一条天皇(敦成親王)の御代では中務大輔(なかつかさのたいふ)・主殿頭(とのものかみ)・民部大輔を歴任したのでした。
万寿4年(1027年)を最後に記録から姿を消し、その晩年や最期については明らかではありません。
終わりに
今回は呪詛によって失脚した源方理の生涯をたどってきました。
長徳の変と二度にわたって失脚したのに、なかなかしぶとい人物でしたね。
あるいは道長の義兄弟でもあるため、大目に見られたのかも知れませんね。道長は身内に甘いところがあるから……。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、どんな人物に描かれるのでしょうか。阿部翔平の演技に注目です!
※参考文献:
- 山中裕『源氏物語の史的研究』思文閣出版、1997年6月
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