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滅びゆく武田勝頼に最期まで忠義を尽くした戦国武将・土屋惣藏の「片手千人斬り」

戦国時代
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調子のいい時は媚びへつらっておきながら、ひとたび落ち目と見るや手のひらを返す……しょせん世の中そんなものかも知れませんが、あまりの無節操に腹を立ててしまう気持ちも解ります。

そんな思いは裏切りや下剋上の嵐吹き荒れる戦国時代も変わらなかったようで、今回は江戸時代の武士道バイブル『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』が紹介する戦国武将・土屋惣蔵(つちや そうぞう。昌恒)のエピソードを見てみましょう。

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日ごろ大口を叩いていた連中はどこへやら……

一一九 信玄家中は無雙の勇士共にて候へども、勝頼天目山にて討死の時、皆迯げ失せ申し候。數年勘気にて罷り在り候土屋惣藏一人罷り出で、「日頃口を叩き申されたる衆は、どなたへ參られ候や。主の恩報じに。」とて、一人討死仕り候由。

※『葉隠』巻第十より

【意訳】
武田信玄(たけだ しんげん)公の家中は無双の勇士ぞろいであったが、天目山の戦いで武田勝頼(かつより。信玄の子)が討ち死にし、武田家が滅亡した時、みんな逃げ失せてしまっていた。
ひとたび武田家が落ち目と見るや、次々と裏切っていく者たちに怒りを覚えていた土屋惣蔵は
「主君の寵愛を恃みに日ごろ大口を叩いていた連中は、一体どこへ行ったのだ。主君から受けた御恩に報いることなく」
そう叫ぶや敵に斬り込み、一人討死したということである。

……武田勝頼と言えば、偉大なる父・信玄公を超えようと葛藤して老臣たちと対立。我が意に適うへつらい者ばかりを侍らせた挙げ句、織田信長(おだ のぶなが)に攻め滅ぼされてしまった暗君として描かれがち。

勝頼主従の最期。月岡芳年「勝頼於天目山逐討死圖」

実際には勝頼にも言い分はあるものの、その身辺に「日頃口を叩き申されたる衆」がいたのも事実であり、愚直に奉公していた(にも関わらず、あまり厚遇に与れなかったであろう)惣蔵らの怒りももっともです。

武田の意地を見せてやる!信長さえも激賞した惣藏の奮戦ぶり

「ホラ見たことか、忠義の者を顧みず、へつらい者ばかりを取り立てるから、いざとなったら見捨てられてこのザマじゃないか!」

並の者であれば、ここぞとばかり気が済むまで罵倒して、今まで自分たちを顧みなかった主君を見捨ててしまうかも知れませんが、土屋惣藏は違いました。

「ここはそれがしが防ぎ申す。御屋形様は先へお急ぎ下され!」

勝頼が敵の手にかからず自害する時間を稼ぐため、ただ一人で狭い崖道に陣取ります。

「さぁ来い!甲州武士の意地を見せてくれる!」

仲間たちが次々と裏切る中、最期まで忠義を尽くした土屋惣藏(昌恒)。歌川国綱「天目山勝頼討死図」

転落しないよう、左手は藤の蔦に絡みつけ、右手の刀で迫り来る織田方の兵を一人また一人と奈落の底へ斬り捨てて、実に千人ばかりも血祭りに上げたことから、後に「片手千人斬り」の異名をとりました。

また惣藏に斬られ、突き落とされた者たちの血は崖下を流れる日川(ひかわ。現:山梨県甲州市)を赤く染め、三日間にわたって赤いままであったため、人々は三日血川とも呼び、惣藏の忠義と武勇を称えたそうです。

これで十分に時間が稼げたため、勝頼は敵の手にかかることなく自刃して果て、それを確認した惣藏もまた、追腹(おいばら。後を追って切腹すること)を切って果てます。

惣藏の凄まじい奮戦ぶりは、信長をして「敵ながら誠にあっぱれ」と激賞せしめ、心ある武士たちの鑑として後世に伝えられたのでした。

終わりに

「人間は嘘をつくからこそ、真実を貫く者が尊い」とは誰が言ったか、影が深ければ光も輝きを増すように、謀略と裏切りに満ち満ちた乱世なればこそ、最期まで忠義をまっとうする者が何よりも大切とされました。

「耐えよひたすら、御家のために……」

惜しむらくは、その本質を見抜ける者が少なく、そうした有為の人材が粗末に扱われていることであり、その課題は現代においても継続中と言えるのではないでしょうか。

※参考文献:
古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年6月
柴辻俊六ら編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年5月
丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団 信玄・勝頼を支えた家臣たち』教育評論社、2016年6月

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