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【歴史旅】古墳時代の鎌倉~陣出遺跡の発掘調査・現地説明会に参加しました!

伝承民俗
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令和5年(2023年)10月8日(日)、鎌倉市深沢地域の再開発事業で発掘された陣出遺跡(鎌倉市No.351遺跡/鎌倉市寺分字陣出393-11他)の現地説明会が実施されたので、参加してきました。

当日は雨が降りそうな中、鎌倉市の内外より多くの参加者が訪れており、郷土の歴史文化に対する高い関心がうかがわれます。

配布資料より、当日の調査地点と関連遺跡の位置関係。

今回の調査は再開発に先だって行われた試掘確認調査(令和4・2022年)の結果、古墳時代から奈良・平安時代の竪穴住居跡が確認されたため、今後道路の建設予定範囲について本年7月から発掘調査が行われてきたものです。

今回は遺構の他にも縄文土器や黒曜石片、弥生土器も発見されていることから、この地に古くから人々が暮らしてきたと考えられます。

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ここでどんな暮らしが営まれたのか……想像に胸ふくらませる

今回発見された遺跡は古墳時代から奈良~平安時代の竪穴住居跡が4軒(SI-01~04)と、同時代の遺構(SX-01~02掘込み、用途は不明)2基と土坑が1基(SK-01)。

他にも調査範囲の南側に近世の生活で掘られたとみられる1条の溝状遺構が発見されました。溝に沿って木杭が列になっていることから、水路として使われたのでしょうか。

竪穴住居は固い岩盤の外側にそって沖積地(土砂の積もった土地)部分に建てられており、恐らく柱を立てる穴を掘る都合でそうなったものと考えられます。

以下、配布資料を元に発見された遺構を見て行きましょう。

配布資料を元に現地の略図を加工。現地写真は個人使用に限るとのことで、図面のみでご了承下さい。

【SI-01】竪穴住居その1

規模は東西約4.8m×南北約3.8m、深さ約0.25m。

北東に竃(かまど)が作られ、鍋を下から支える脚(支脚)も発見。柱を立てる穴は確認できず。

【SI-02】竪穴住居その2

規模は東西約4.0m×南北約3.8m、深さ約0.3m。

北側と東側に竃が作られ、東側の竃からは支脚が発見。こちらも柱を立てる穴は確認できず。

【SI-03】竪穴住居その3

規模は東西約3.8m×南北約4.0m、深さは確認中(覆土を掘削中)。

【SI-04】竪穴住居その4

規模は東西約2.1m以上(未確定)×南北約3.8m、こちらも深さは確認中。

遺構の西側は調査範囲外のため未着手。担当が厳密に管理されているようです。竃は調査区域外の北側に作られていると推測されます。

【SX-01】掘り込み1

規模は径約0.6m×深さ約0.15m、南側が撹乱(かくらん。後世に形状変更)されて残っていません。ここから古墳時代末期(7世紀)に作られたと見られる須恵器(すえき)の長頸瓶が出土しています。

【SX-02】掘り込み2

規模は径約2.0m×約1.4m、深さ約0.9mという大きな掘り込みです。何に使われたのかはまだ分かりません。

【SK-01】土坑1

規模は径約0.8m×約0.7m、深さ約0.6mという掘り込みで、SX-02より後に掘られたことが判明しているそうです。

会場では関係者が参加者に対して説明を行い、また出土した土器や黒曜石、土師器(はじき)にJR大船工場時代(昭和~)に使われたレールをとめる犬釘などが見学に供されました。

かつてこの場所で、往時の人々がどのような暮らしを営んでいたのか。これらの道具を作って、あるいは使いながら何を思っていたのか……など思いを馳せる有意義なひとときに感謝します。

なお今回の調査が終了したら、現地は道路建設のため再び埋め戻してしまうとのこと。残念ですね。

鎌倉と言えば、とかく幕府が栄えた中世(鎌倉時代前後)のイメージ強いでしょう。しかし頼朝公が来る前から鎌倉はあったし、幕府の滅亡後も鎌倉は今日まで続きました。

かつて鎌倉の地に息づいた人々の営みが詳(つまび)らかになるよう、今後も調査究明が俟たれます。

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参考・陣出遺跡一帯の略史

泣塔と案内板(C)歴史屋
洲崎古戦場の石碑(C)歴史屋
元弘3年(1333年)5月22日鎌倉幕府の滅亡に際して、赤橋守時が新田義貞の軍勢を迎え撃って60数回もの戦闘が繰り広げられる。力尽きた守時主従90数名がこの地で自刃した
※小字名の「陣出」はこの合戦に基づくと考えられる
文和5年(1356年)2月20日守時たちの23回忌法要のため、供養塔(現在の泣塔)が建立される
天文16年(1547年)11月21日北条氏康判物により「須崎大慶寺分(意:洲崎郷にある大慶寺の所領)」と、寺分の地名が確認できる(初出か)
江戸時代相模国鎌倉郡寺分村陣出の地名が確認される。管轄は韮山代官所
明治22年(1889年)4月町村制の施行により、7村が合併して深沢村が誕生。寺分が大字の一つとなる(ほか梶原・上町屋・手広・常盤・笛田・山崎)
昭和8年(1933年)8月23日重要美術品「深沢文和五年銘宝篋印塔」に認定(重要美術品等ノ保存ニ関スル法律)
昭和17年(1942年)横須賀海軍工廠深沢分工場が造営される
※この時に供養塔を撤去し、手広の青蓮寺に移したところ、夜な夜なすすり泣く声がしたため「泣塔(陣出の泣塔)」と名づけられたという
昭和23年(1948年)深沢村が鎌倉市に併合され、寺分はその大字として存続する
昭和24年(1949年)6月1日に日本国有鉄道(国鉄。後のJR)が発足、海軍より深沢分工場が払い下げられる
昭和31年(1956年)3月鎌倉友青会により、洲崎古戦場の顕彰碑が建立される
昭和41年(1966年)12月1日国鉄工場長の発案により、泣塔の周囲に杉の苗400本を植えたという
昭和45年(1970年)3月7日湘南モノレール江の島線が開業、湘南深沢駅が営業開始
昭和46年(1971年)9月11日泣塔が鎌倉市指定有形文化財「石造 宝篋印塔(文和五年銘)」として指定される
平成18年(2006年)3月31日東日本旅客鉄道(JR東日本)大船工場が閉鎖される
平成28年(2016年)1月鎌倉市都市マスタープランの運用開始(策定は前年9月)

※参考:

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