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北条から家康へ…徳川水軍を支えた渡辺織部とその一族【どうする家康 外伝】

戦国時代
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徳川家康の天下取りを支えた忠勇なる家臣たち。彼らの渡り歩いた戦場は陸だけではなく、海にも広がっていました。

今回は徳川水軍の一角を支えた渡辺一族を紹介。その初代、渡辺織部(わたなべ おりべ)は元々相模の北条氏に仕えていたのでした。

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初代・渡辺織部

●某 織部

北條家につかへ、後めされて東照宮につかへたてまつり、廩米二百俵をたまひ、船のことをうけたまはり、伊豆国賀茂郡宮内村新島領を支配し、その地を所務す。

※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百八 未勘 渡辺 依田

渡辺織部は生没年不詳。織部は官途名(私称の官職)で、諱(いみな。実名)は伝わっていません。

※子孫に渡辺韶(つぐ)という一文字名の者がおり、もしかしたら渡辺綱(頼光四天王の一人)のように、代々一文字名であったとも考えられます。

元は北条氏に仕えていましたが、後(北条の滅亡後?)に家康に仕え、蔵米200俵を与えられました。

蔵米(くらまい。廩米)とは実際の所領ではなく、収穫された米を直接給料として支払う制度です。

元々水軍としての心得があったようで、徳川水軍の一角を担うようになった織部。後に伊豆国賀茂郡宮内村の新島領を預かり、現地を支配したということです。

現代では東京都の管轄となる新島ですが、昔は伊豆国(静岡県伊豆半島)に分類されていたのですね。

渡辺織部には渡辺喜兵衛・渡辺半右衛門という息子たちがおり、水軍の指揮は彼らに引き継がれたのでした。

二代目・渡辺喜兵衛

水軍を率いて大暴れ(イメージ)

●某 喜兵衛

某年めされてつかへたてまつり、のち父がつとめに代り、関原をよび大坂各御陣にも御船の事をうけたまはり、新島のものどもを具して出陣す。

※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百八 未勘 渡辺 依田

生没年不詳

渡辺喜兵衛も生没年不詳、ある年に家康へ出仕しました。

やがて父が引退すると水軍の指揮を担い、関ヶ原の戦い(慶長5・1600年)や大坂の陣(慶長19・1614年~慶長20・1615年)に従軍。新島の者たちを引き連れて活躍したことでしょう。

息子には渡辺五郎作(兄)と渡辺五郎作(弟)の二人がいました。

喜兵衛の弟・渡辺半右衛門

某 半右衛門

※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百八 未勘 渡辺 依田

生没年不詳

こちらは名前だけの登場。生没年不詳。兄と共に活躍したのか、あるいは地元で留守番していたのか、気になりますね。

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三代目・渡辺五郎作(兄)

荒くれ者を率いて大暴れ?(イメージ)

某 五郎作

元和元年大坂御陣のとき父とともに発向し、御帰陣ののち諸士の軍功を賞せられ加増あるのとき、五郎作めされて江戸に至るの路次やまひにかゝり、神奈川駅にをいて死す。嗣なかりしかば食禄をおさめらる。

※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百八 未勘 渡辺 依田

生年不詳~元和元年(1615年)没?

父と共に大坂の陣で活躍しました。武勲によって加増の恩賞にあずかるため、一路江戸へ向かう道中、病を患ってしまいます。
病状は回復することなく、そのまま神奈川駅(横浜市)で亡くなってしまいました。子供がいなかったため、御家を取り潰される憂目を見ることとなったのです。

四代目・渡辺五郎作(弟)

●某 五郎作

兄死するののち、めされて舊のごとく伊豆国新島領を支配し、後代々其地を所務す。

※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百八 未勘 渡辺 依田

生没年不詳

実名は不詳。兄と同じ名前の五郎作は、兄から襲名したものと思われます。

兄の死により改易されてしまった渡辺水軍。しかし弟が家督を許されてこれを再興し、元のごとく新島を治めたのでした。

記述にはこれしかありませんが、兄の急死によって家督を継いだ結果から想像を膨らませると、兄の死に何か関与しているのかも知れません。

渡辺水軍その後

第10代将軍・徳川家治(浚明院。画像:Wikipedia)

【新島渡辺家略系図】
……渡辺織部-渡辺喜兵衛-渡辺五郎作(兄)=渡辺五郎作(弟)-渡辺五郎作(五代目)-渡辺五郎作(六代目)=渡辺韶(つぐ)=渡辺民部(半十郎)=渡辺吉三郎……

以上、戦国末期から江戸時代初頭にかけて徳川家の天下獲りを支えた渡辺水軍を紹介してきました。

その後も代々新島に根づいて活躍したようですが、9代目の渡辺吉三郎は父親の不当借財が理由で改易されてしまいます。

●某 吉三郎

実は某氏が男、半十郎某が養子となる。

宝暦十年十一月二十五日 はじめて浚明院殿にまみえたてまつり、十二年九月二十八日小十人に列し、明和七年二月五日父半十郎職にあるの間、負金を補はむがため支配所の郷村より銀子をかりうけ、年貢銀をもつて返済せるの條糺明を遂られざるのうち既に死せり。汝父看病のためかの支配におもむき、租税の滞りあるをきゝ、これを償はむがため手代どもの申むねに任せ、農民等より銀子をかり、或は村々より金銀を取立し始末曲事なりとて改易せらる。

※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百八 未勘 渡辺 依田

さぞ無念だったことでしょうが、父の借財にも何かそれなりの理由があったのかも知れませんね。今も新島の地に子孫たちがいるのでしょうか。

歴史の表舞台にはあまり出てこないこういうマイナー武将たちの人生を、これからも紹介していきたく思います。

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第8輯』国立国会図書館デジタルコレクション

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