江戸の浮世絵界に大きな影響を与えた喜多川歌麿。その画統は多くの弟子たちに受け継がれました。
今回は歌麿の弟子・喜多川菊麿(きくまる)⇒喜多川月麿(つきまる)について紹介。果たしてどんな人物だったのでしょうか。
上方で修行していた?

喜多川月麿は生年不詳、その出身や家族などについて、詳しいことは分かっていません。
本名は小川潤(おがわ じゅん)、通称を千助(せんすけ)または六三郎(ろくさぶろう)と呼ばれました。
また字(※)を子達(したつ。士達)、号を墨亭(ぼくてい)・遒斎(しゅうさい)後に観雪(かんせつ)しています。
(※)中国大陸に伝わる成人男性の通称。日本でも漢風を好んで用いられました。
歌麿に弟子入りした時期は不明ですが、寛政(1789〜1801年)ごろから喜多川菊麿(きくまる)名義で絵草紙の挿絵などを手がけていることから、それ以前と考えられるでしょう。
※一部画風に四条派の個性が垣間見えることから、上方で修行していた可能性も指摘されています。
やがて享和2年(1802年)からは喜多川喜久麿(読み同じ)、文化元年(1804年)以降に喜多川月麿と改名しました。
師弟そろって手鎖の刑に
そんな月麿は文化元年(1804年)に師匠ともども手鎖(てじょう)の刑に処されてしまいます。
罪状はご禁制の絵(煽情的な絵や御政道批判につながる絵)を手がけたことで、師弟で50日にわたる不便を強いられました。
ちなみに月麿の画風は時期によって大きく変遷しており、歌麿→葛飾北斎→渓斎英泉(けいさい えいせん)の影響を受けています。
錦絵よりも肉筆画や戯作の挿絵などに力を入れており、特に交流の深かった十返舎一九(じっぺんしゃ いっく)の作品は多く手がけました。
一説には文政13年(1830年)に亡くなったとされますが、天保7年(1836年)に『十符の菅薦』で挿絵を描いています。
誰かが二代目を襲名した可能性もありますが、いずれにしても没年についても定説がありません。
喜多川月麿・基本データ

- 生没:生没年不詳
- 本名:小川潤
- 通称:小川千助、小川六三郎
- 別名:小川子達(士達)
- 別号:墨亭、遒斎、観雪
- 改名:喜多川菊麿→喜多川喜久麿→喜多川月麿
- 出身:不詳
- 家族:不詳
- 職業:浮世絵師
- 活動:寛政(1789〜1801年)から天保7年(1836年)ごろ?
- 師匠:喜多川歌麿
- 影響:葛飾北斎、渓斎英泉、四条派?
- 交流:十返舎一九など
- 賞罰:手鎖50日
終わりに
今回は喜多川歌麿の弟子・喜多川月麿について、その生涯をたどってきました。
恐らくNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」には登場しないでしょうが、歌麿の弟子としてワンチャンあるかも知れませんね。
歌麿の弟子はもちろん、当時は多くの魅力的な浮世絵師が活躍していたので、また紹介したいと思います。
追記(R7.10.5)

第38回放送「地本問屋仲間事之始」で、久保田武人が菊麿として登場(出演)しました!今後、歌麿のサポート役として活躍してくれることでしょう。
※参考文献:
- 吉田漱『浮世絵の基礎知識』雄山閣、1987年7月