時は治承4年(1180年)8月に伊豆で挙兵した源頼朝は、石橋山の合戦で一敗地にまみれ、海を渡って房総半島へと逃れます。そして再起を果たすのですが、頼朝は滞在中に様々な伝説を残しました。
そこで今回は、千葉県鋸南町に残る頼朝伝説を紹介したいと思います。
無欲さにあきれた頼朝の言葉から生まれた苗字?

鋸南町には左右加(そうか)さん、馬賀(まが)さんという苗字が多いそうですが、これにはこんな理由がありました。
石橋山から命からがら逃げ延びてきた頼朝を、現地住民が手厚くもてなしたそうです。
心温まるもてなしに感激した頼朝は、彼らに深く感謝して言いました。
頼朝「もし我らが天下に号令した暁には、そなたらに安房一国(あわいっこく)を与えよう」
安房国(あわのくに)とは現代の千葉県南部、房総半島の先端地域です。大変な恩賞ですが、それほど頼朝は喜んでいたのでしょう。
普通なら「海老で鯛が釣れた」とばかり大喜びするところですが、住民たちはこれを辞退しました。なぜでしょうか。
住民「粟(あわ)なら一石(いっこく)どころか」いくらでも畑で穫れるから結構です。それよりも、苗字をいただいて、末代までの名誉といたしたく存じます」
彼らは安房一国(あわいっこく)を粟一石(あわいっこく)と勘違いし、それよりも、苗字を賜る栄誉を求めたのでした。
住民らの申し出を聞いた頼朝は、彼らの無欲さに、驚くやら呆れるやら。
一国の支配権よりも名誉を選ぶとは……頼朝は苦笑まじりに
「そうか、バカだなあ」
とつぶやいたそうです。これを住民たちは苗字を賜ったと再び勘違い。
かくして左右加(そうか)と馬賀(まが)という苗字が生まれ、現代まで受け継がれてきたということです。ちょっと眉唾な気もしますが……。
竜島の七姓

これ以来、頼朝は「奉公に対する御恩(恩賞)は、苗字を与える」ことにしました。
もし財物や所領など与えてしまったら、先に苗字を与えた者たち(左右加・馬賀ら)が不公平感を覚えてしまうからでしょう。
そこで頼朝は、奉公の種類や家の特徴などによって苗字を与えたということです。
- 生貝(いけがい):貝を献上したから
- 鰭崎(ひれさき):エイを献上したから
- 松山(まつやま):自宅に松があったから
- 柴本(しばもと):柴山のふもとに住んでいたから?
- 菊間(きくま):家の両側に菊が咲いていたから?
- 中山(なかやま):連なる山のふもとに住んでいたから?
- 久保田(くぼた):窪地の田を持っていたから?
彼ら7家を竜島七姓(りゅうしましちせい)と呼び、今も鋸南町竜島に多く住んでいるそうです。
船頭たちに伝わる苗字

こんな具合で頼朝は苗字を与えていきましたが、船頭たちにはこんな苗字を与えました。
- 艫居(ともい):船頭は舟の艫(とも。船尾)で舵(かじ)をとったり、艪(ろ)や櫂(かい)を漕いだりするから?
- 間(はざま):舟が波間に出るから。あるいは房総半島と三浦半島の間、または房総半島と伊豆半島の間に出るから?
- 渡(わたり):海を渡るから?
これらの苗字も、鋸南町の竜島・勝山地区に残っているというので、訪れたら表札をチェックしてみたいですね。
終わりに
今回は房総半島に残る頼朝伝説の一部を紹介してきました。
苗字には様々な由来があり、頼朝から賜ったという真偽はともかく、とても興味深いですね。
それだけみんな、頼朝を尊敬していた、あやかりたいと思っていたのでしょう。もしかしたら、皆さんの苗字も、頼朝と何か関係があるのかもしれません。
他にも頼朝伝説を紹介したいと思うので、その時はお付き合いいただけたら嬉しいです!
※参考文献:
- 笹生浩樹『房総の頼朝伝説』冬花社、2013年7月

