戦国時代の三大梟雄とは誰が呼んだか、松永久秀(まつなが ひさひで)を思い浮かべる方は多いのではないでしょうか。
※後の二人は宇喜多直家・斎藤道三(諸説あり)。
果たしてどんな人物だったのか、その生涯をたどってみたいと思います。
この記事が、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を楽しむ参考になれば幸いです。
三好長慶に仕える

松永久秀は永正5年(1508年)に誕生しました。
出身地は山城国西岡(京都市西京区)と言われますが、摂津国(大阪府北部)や阿波国(徳島県)とも言われます。
要するに氏素性の分からない、胡散臭い人物だったと言えるでしょう。
しかし才能は確かだったようで、20代半ばの天文2〜3年(1533〜1534年)ごろに三好長慶(みよし ちょうけい/ながよし)の右筆として仕官します。
右筆は現代で言う秘書や書記のような役職で、高い事務処理能力が求められました。
長慶が身分や家柄にとらわれることなく家臣団を築いたことも、久秀にとって幸運だったことでしょう。
かくして取り立てられた久秀は弾正忠(だんじょうのちゅう)を称します。俗に松永弾正と呼ばれるのは、これが由来です。
将軍暗殺、東大寺炎上

当時畿内を掌握していた三好政権の中枢を担い、幕政にも関与していく中で、次第に国獲りへの野心が湧き起こったのでしょうか。
永禄7年(1564年)に長慶が世を去ると、久秀は次第に三好家と対立するようになります。
永禄8年(1565年)には三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と共謀して第13代将軍・足利義輝(あしかが よしてる)を暗殺するも、畿内の主導権を巡って本格的な抗争に発展しました。
一時は居城であった信貴山城を奪われる苦境に陥りますが、永禄10年(1567年)には奪還します。
三人衆が大和国へ攻め込んでくると、久秀はこれを迎撃。長対陣のすえに三人衆の本陣であった東大寺を奇襲、見事に勝利したものの、東大寺が炎上してしまいました。
臣従と謀叛を繰り返す

その後も抗争を繰り広げた久秀は、第15代将軍・足利義昭(尾上右近)と義昭を担ぐ織田信長(小栗旬)に接近。その後ろ楯を得て、元亀元年(1570年)には大和一国の切取りに成功します。
しかし翌元亀2年(1571年)には信長との関係が悪化。旧敵であった三人衆と連携して信長に対抗しました。まさに「敵の敵は味方」理論ですね。
やがて足利義昭も信長と敵対し、諸大名に信長討伐を命じます。いわゆる信長包囲網に、久秀も加担しました。
しかし元亀4年(1573年。天正元年)には、包囲網の盟主たる義昭が信長に降伏。翌天正2年(1574年)には久秀も信長の軍門に降ります。
命を救われ、これで忠義を尽くすかと思いきや、天正5年(1577年)に再び叛旗を翻しました。
2度まで裏切った久秀に対し、信長はなおも降伏を呼びかけますが、久秀は断固拒否。自害して果てたのです。
「平蜘蛛だけは渡さん!」

ところで久秀は、平蜘蛛(ひらぐも)と呼ばれる茶釜を持っていました。
蜘蛛が這うような形からそのように名づけられ、天下の名物として知られています。
茶の湯に熱心だった信長はこれを所望しますが、久秀は代わりに九十九髪茄子(つくもなす)の茶入を献上しました。
この九十九髪茄子も天下の名物として知られた逸品ですが、久秀は平蜘蛛の方が気に入っていたのでしょう。
しかし信長は、あくまで平蜘蛛に執着します。何と最後の謀叛においても「平蜘蛛を渡せば助命する」と説得します。
しかし久秀は、平蜘蛛を手放すくらいなら、死んだ方がマシと思ったのでしょうか。
我が首と平蜘蛛だけは、信長の目にかけてなるものか……久秀は平蜘蛛を粉々に打ち砕き、城に火をかけ自害したのでした。
時に天正5年(1577年)10月10日、かつて東大寺を炎上させてから、ちょうど10年後です。そのため、人々は久秀について「春日大明神(※)の神罰が当たったのだ」と噂しました。
(※)当時は神仏習合の思想から、東大寺は春日大社と一体でした。
かくして一代の梟雄・松永久秀は壮絶な最期を遂げたのです。
終わりに

主家を裏切り・将軍を暗殺し・大仏を焼き払う……まさしく悪行三昧を絵に描いたような松永久秀。
しかし信長だって似たようなものではなかったでしょうか。
尾張統一に際して主筋の織田大和守家を滅ぼし、比叡山を焼き討ちにし、そして将軍・足利義昭を追放……。
信長と久秀は勝ったか負けたかの違いに過ぎず、だからこそ、信長は久秀の謀叛に甘かったのかも知れませんね。
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、竹中直人が演じる松永久秀。果たしてどんな生き様と死に様が描かれるのか、楽しみですね!
※参考文献:
- 渡邊大門『戦国史が面白くなる「戦国武将」の秘密』洋泉社、2015年1月
- 天野忠幸『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』平凡社、2018年6月

