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千代(演 古川琴音)のモデル・望月千代女は実在したの?武田信玄の歩き巫女・くノ一説を検証【どうする家康】

戦国時代
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乱世を見つめたミステリアスな歩き巫女
千代 ちよ
[古川琴音 ふるかわことね]
本證寺の境内で神秘的に舞う巫女として振舞い、家康と空誓が出会うきっかけをつくる。全国津々浦々を歩いてめぐり、各地の情報を握り、重要人物と通じているが、素性も狙いも、敵か味方かも分からない。家康とは不思議な縁で、長き関係を結ぶ。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより。

三河一向一揆を煽動して松平家康(演:松本潤)を苦しめ、やがて去って行った千代(演:古川琴音)。
その正体は武田信玄(演:阿部寛)の手先として諜報活動を展開する歩き巫女でした。

武田信玄の手先だった千代。NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより

歩き巫女とは文字通り特定の神社仏閣に属せず、各地を歩き回って布教や祈祷などの宗教活動を行う女性たち。

かつて信玄が彼女たちを諜報員(いわゆる女忍び、くノ一)として活用した伝承は有名で、千代のモデルは望月千代女(もちづき ちよじょ/ちよめ)と考えられます。

果たして彼女はどんな活躍をしたのか、調べてみましょう。

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本当にくノ一(女忍び)だった?今後の究明が俟たれる

望月千代女は生年不詳、その出自は信濃国小県郡(長野県東御市あたり)の豪族・滋野(しげの)氏と言われています。

やがて望月城(長野県佐久市)城主の望月盛時(もりとき。遠江守)に嫁ぎますが、永禄4年(1561年)の第四次川中島合戦で夫が討死。

千代は武田信玄に見出されて歩き巫女(巫女頭)となり、信濃の歩き巫女たちを統括して諜報活動に従事した……と伝わります。

歩き巫女とは
歩き巫女とは特定の寺社に所属せず、各地で祭祀を行った巫女のことです。
職業上、怪しまれることなく各地を行き来できるため、そこに目をつけた信玄が諜報活動に従事させたと言われています。
諜報組織は多くの戦国大名が採用していたものの、女性が主体となった組織の導入は珍しい例と言えるでしょう。現代でも小県郡禰津村(長野県東御市)は「巫女村」と呼ばれており、多くの歩き巫女を輩出したと考えられます。
武田家の隠密集団「三つ者」「甲州素破」
他にも信玄は「三つ者(※)」と呼ばれる忍者集団を駆使し、各地で暗躍した彼らは「甲州素破(こうしゅうすっぱ)」などと呼ばれ、大いに畏れられました。
(※)間見(まみ。遠方からの偵察)・見分(みわけ。接近しての偵察)・目付(めつけ。敵中に潜入しての偵察)の三つに分かれたため、そう呼んだと言います。
信玄は、これらの組織を巧みに用いて情報収集を徹底。数々の勝利を収めたため、諸大名より「足長坊主」と恐れられたのでした。

こうした経緯から、千代もくノ一として活躍したと見られるものの、こうした言説には反論もあるようです。

一、仮にも名だたる(城主を務めるクラスの)武将に嫁ぐレベルの女性が、歩き巫女≒忍びなどするだろうか?(普通は実家が許さないし、信玄だってやらせないはず)

一、望月盛時は川中島合戦で討死していない(夫が生きているなら、みだりに郷里を離れないはず)。

一、そもそも歩き巫女が諜報活動をしていた確証がなく、憶測に過ぎない。

また、望月千代女に対して発給された巫女頭の免状が現存せず、他に裏づけとなる史料もありません。

こうした要素から、望月千代女が歩き巫女≒忍びであったと断定するのは慎重であるべきと考えます。

【追記】千代の夫について

川中島の合戦で討死した望月氏の人物に、信玄の甥(弟・武田信繁の長男)に当たる望月信頼(のぶより。武田義勝、養子入り後に改名)がおり、もしかしたら彼が千代の夫であった(望月盛時は誤伝)のかも知れません。

終わりに

とは言え、面白ければこうした半架空の存在が物語を彩るべく、許容されるのはよくあることです。

(真田十勇士や義経四天王など、広く日本人に愛されるキャラクターを一掃してしまったら、時代劇の魅力も半減してしまうでしょう)

不気味に笑みを浮かべる千代。NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより

「家康とは不思議な縁で、長き関係を結ぶ」との事で、武田信玄との対決はもちろんのこと、武田の滅亡後も永く活躍が期待されます。

もし彼女がくノ一設定でいくならば、女大鼠(演:松本まりか)との対決もあるかも……果たして望月千代がどんな振舞いを魅せてくれるのか、これからも楽しみですね!

※参考文献:

  • 福田晃『神道集説話の成立』三弥井書店、1984年5月
  • 吉丸雄哉ら編『忍者の誕生』勉誠出版、2017年4月

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